Ⅱ. 稀代の大衆文学作家、文豪の御二方より
稀代の大衆文学作家、文豪の御二方より
アレクサンドル・デュマ(『岩窟王』『三銃士』)と、
ロバート・ルイス・スティーヴンソン(『宝島』『ジキル博士とハイド氏』)
村上春樹文学の「ウジウジ感」を徹底的に糾弾する架空の書評・往復書簡をお届けします。
アレクサンドル・デュマからの酷評
「牢獄の壁すらぶち破れぬ男の、惨めな脳内独白」
「やれやれ」だって? 我が愛すべき読者諸君、私はこの東洋の作家の分厚い書物を読み進める間、ずっと退屈という名の拷問にかけられている気分だったよ。
物語というものは、血の通った人間が、運命という名の巨大な監獄の壁をいかにしてぶち破るかを描くためにある。我がエドモン・ダンテスを見たまえ。彼は十四年間、シャトー・ディフの暗黒の独房に閉じ込められながらも、ただの一秒だって「どうしようかな」などとウジウジ思い悩むことなどしなかった。ファリア神父から知略のすべてを吸収し、死体の袋に自らを潜り込ませ、冷たい夜の海へと飛び込んで自由を、そして復讐への切符を掴み取ったのだ。
ところが、この村上という男の描く主人公たちはどうだ。彼らは最初から、お洒落で、何不自由ない現代の『安全な牢獄』に暮らしている。それなのに、自分の部屋でパスタを茹で、小綺麗なレコードをかけながら、
「世界は僕を理解してくれない」
と、まるで甘やかされた子供のようにシーツにくるまって拗ねているだけではないか。
彼らにとっての冒険とは、せいぜい近所の井戸の底に降りて、自分の内面の暗闇をじっと弄り回すことらしい。何という精神の自慰行為だろうか!
彼らの前に現れる女性たちも、現実の生々しい人間関係の摩擦を恐れる彼らの脳内が作り出した、都合の良い幻影に過ぎない。向こうから勝手にやってきて、謎めいた言葉を残し、体を差し出して消えていく。
こんなものは文学でもなければ、ロマンスでもない。ただの臆病者の寝言だ。
人間なら、そして男なら、ウジウジ考えている時間があったら、早く行動したまえ! 剣を抜き、知略を尽くし、愛する者のために世界を敵に回して戦う姿にこそ、大衆は歓喜し、その物語は一世紀を超えて生き続けるのだ。
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ロバート・ルイス・スティーヴンソンからの酷評
「舵を捨てて漂流する、イライラさせる酩酊船」
デュマ閣下、あなたの怒りはもっともだ。私もこの男の小説を読みながら、ずっと激しい船酔いのようなイライラ感を覚え続けていた。
僕が『宝島』を書いたとき、少年ジム・ホーキンズを突き動かしたのは、一枚の古い宝の地図と、まだ見ぬ未知の水平線への圧倒的な「行動への渇望」だった。島に辿り着けば、獰猛な海賊ジョン・シルバーとの命がけの知略戦が待っている。波の音、硝煙の匂い、裏切りのスリル。大衆文学の船は、どんな嵐に遭おうとも、自らの手で舵を握り、前へと進むからこそ面白いのだ。
しかし、村上春樹の書く船は、最初から自ら舵も錨も捨てて、ただ濁流のなかにぷかぷかと浮かんでいるだけの「酔いどれ船」だ。
主人公の男は、世界の不条理という名の潮の流れに身を任せ、
「僕はただ流されているだけ。やれやれ、どうしようもないじゃないか」
と、停滞することそのものに恍惚を感じている。これはサリンジャーの『ライ麦畑』の、あのこじれた青少年のウジウジ感を、大人の男になってもずっと引きずり続けているモダニズムの病気だ。
西洋のラテン文学や、東洋の漢文の素養を持つ作家の文章には、人間のエゴイズムをねじ伏せる強靭な「骨格」がある。だからこそ、一刀両断の決断が生まれ、物語にカタルシスが宿る。
だが、彼の文章にはその骨格がない。英語を日本語に翻訳したような、響きだけは小洒落ているが中身がスカスカの、いわば「骨粗鬆症の日本語」だ。だから物語はどこへも着地せず、読後にただ不愉快なモヤモヤ感だけが残る。
ノーベル賞の選考委員たちが、彼の「やれやれ」をいつまでも素通りするのも当然さ。彼らは、自らの内面だけで自己完結している自慰の物語ではなく、人類の過酷な歴史の荒波と本気で戦う、太い骨を持った物語を求めているのだから。
ウジウジ悩む時間があるなら、荷物をまとめて海へ出ろ!
物語の価値は、いつの時代も「言葉の軽さ」ではなく「行動の力」によってのみ証明されるのだから。




