Ⅰ. 玩具のパスタと贅沢な退屈
「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」
リケルの、代表作は、
詩人を志す20歳の青年カプスが、大家リルケに送った相談手紙への返信10通を収めた書簡集です。
リルケは青年の詩を安易に批評せず、
「自分の外に目を向けるな、内面へ向かえ」と諭します。
そして、
人間が避けて通れない「孤独」の尊さ、安易な結末を求めず「問いそのものを生きる」ことの大切さを静謐な言葉で語りかけます。
創作の心構えにとどまらず、人間がいかに生きるべきかを問うています。
直木三十五より、
現代文壇の巨星「やれやれ」を排す ―村上春樹論
1 玩具のパスタと贅沢な退屈
近頃の文壇というやつは、どうにも生ぬるい湯の中に浸かって、互いの背中を流し合っているような気配がして、僕などは見ていて虫酸が走る。
殊に、世界文学だのノーベル賞の呼び声だのと、ジャーナリズムが寄ってたかって祭り上げている村上春樹という男の小説を読むに至っては、僕はただ呆れるのを通り越して、一種の気の毒ささえ覚えるのである。
彼の小説の主人公ときたら、どいつもこいつも、判で押したように同じ顔をしている。
大した仕事もせず、世間の生々しい戦いからは身を退いて、お洒落なアパートの台所で、これまたお洒落なクラシック・レコードをかけながら、暢気にパスタを茹でている。そうして、何やら世界の不条理だの、孤独だの、魂の喪失だのといった、手垢のついた看板を頭の上に掲げて、、
「やれやれ」
と、ため息をついている。
僕に言わせれば、これは文学でもなければ、大衆を熱狂させる娯楽でもない。単なる「贅沢な退屈」の切り売りに過ぎない。
そもそも、パスタを茹でてウジウジと悩む時間があるということ自体が、彼らの身分がどれほど特権的に守られているかの証拠ではないか。
僕たちの生きていた昭和の初め、あるいはそれ以前の時代から、本当の人間というものは、今日の米をどうするか、明日の宿賃をどう工面するかという、剥き出しの生存競争のなかで血を吐きながら生きてきた。
一切れのパンのために人生を奪われ、十九年も徒刑場で泥水をすすったジャン・バルジャンのような男の苦悩には、歴史の、そして社会の、圧倒的な「重み」がある。そこには、ウジウジと悩む余地など一寸もない。動かなければ、あるいは知略を尽くさなければ、次の瞬間には死が待っているからだ。
ところが、村上春樹の描く男たちには、その死の恐怖がない。
生活の心配が一切ない安全地帯に身を置きながら、まるで高価な玩具をいじるようにして「孤独」という名の自慰行為に耽っている。これをハスタベーションと言わずして、一体何と言えばいいのか。彼らは、傷ついた自分の内面という名の井戸の底を覗き込み、その暗闇の手触りを楽しんでいるだけで、そこから這い上がって世界を叩き潰そうという野心も、他者を命がけで救おうという覚悟も、最初から持ち合わせてはいないのである。
2 サリンジャーの借り物と、舵なき船の恍惚
彼がこれほどまでに「ウジウジした男」を再生産し続ける根底には、アメリカのサリンジャーが書いた『ライ麦畑でつかまえて』への、盲目的な崇拝があるのだろう。
大人の世界のルールをすべて「インチキ」と呼び、自分だけは純粋な子供の味方でありたいと願うホールデン・コールフィールドの精神。なるほど、十六歳の少年が思春期のこじれた自意識のなかでそれを叫ぶのは、文学としての一つの美しさであり、特権でもある。
しかし、それを三十を過ぎ、四十を過ぎた大人の男が、いつまでも「やれやれ」と言いながら引きずっている姿は、ただの精神的幼児退行であり、見ていてイライラさせられるだけだ。
彼らは社会の泥臭い義務や、組織の理不尽な摩擦から逃げるための言い訳として、その「少年の傷つきやすさ」を都合よく利用しているに過ぎない。
さらに言えば、彼の作品にはアルチュール・ランボーの『酔いどれ船』が持つ、悪質な漂流衝動が紛れ込んでいる。
船曳きを失い、舵も錨も捨てて、ただ潮の流れるままに混沌たる海へと流されていく一本の船。村上春樹の主人公たちは、まさにこの「舵なき船」の心地よさに溺れている。
「世界が僕をこんな迷宮に迷い込ませたのだから、僕がウジウジ悩むのは僕のせいじゃない。やれやれ、流されるままにいこう」
というわけだ。
だが、小説家というものは、あるいは物語のなかの英雄というものは、その漂流の濁流のなかでこそ、血を吐きながらでも「舵を握り直す」男でなければならないはずだ。
古代ギリシアのオデュッセウスを見よ。彼は十年の間、神々の怒りによって地中海を漂流させられたが、一度として「やれやれ」と諦めて流されるままにはならなかった。怪物ポリュペモスの一つ目を焼き潰し、魔女の呪いを切り抜け、自らの知略と強靭な意志で、故郷への進路をこじ開けた。そこにあるのは、環境への不満ではなく、運命に対する「一刀両断の決断」である。
村上春樹の文学には、この「決断」が決定的に欠落している。
彼は、神話のガワ(構造)だけを器用に借りてきて、その中身を「パスタを茹でて悩む現代人の自慰」ですり替えてしまう。だから、物語の結末になっても、主人公は何も解決せず、どこへも辿り着かず、ただ
「僕たちはどこへ向かっているのだろう」
という、思わせぶりなモヤモヤ感だけを残して幕を閉じる。
こんなものは、読者を精神的な賢者タイムに誘い込むための、手の込んだ手続きに過ぎない。
3 漢文の骨格なき、柔弱なる翻訳調の正体
なぜ、彼の文章がこれほどまでに芯がなく、ウジウジとした印象を与えるのか。その原因は、彼が日本語の正統な伝統である「漢文の素養」を、意図的に排してしまったことにある。
日本の文壇において、夏目漱石や芥川龍之介、あるいは中島敦といった、文体に圧倒的な凄みと深みを持つ作家たちは、例外なく徹底的な漢文の教養を血肉としていた。
漢文を学ぶということは、単に中国の詩を暗記することではない。それは、文章から一切の贅肉を削ぎ落とし、論理の骨格を極限まで引き締め、一文字たりとも動かせない「一撃必殺の表現」を鍛え上げるということだ。
漢文の血が通った文章には、人間のエゴイズムをねじ伏せ、歴史の不条理を告発する、冷厳な「力」が宿る。
しかし、村上春樹という男は、その重苦しい日本語の伝統から逃れるために、あえて「英語で書いた文章を日本語に翻訳し直す」という、奇妙な手品を使ってデビューした。
その結果生まれたのは、確かにモダンで、軽快で、西洋人にも読みやすい「無菌室の日本語」であった。だが、それは同時に、漢文的な強靭な論理も、ラテン文学的な壮大な倫理も持たない、「骨粗鬆症の日本語」でもあった。
骨がないから、文章が自立できない。
自立できないから、主人公の男はいつまでも部屋の隅でウジウジとへたり込み、独り言を呟き続けることになる。
彼の小説が世界中で売れているという事実も、僕に言わせれば、単に「誰も傷つかない、誰も決断を迫られない、お洒落な退屈」が、現代の消費社会のニーズに合致したというだけの話だ。マクドナルドのハンバーガーが世界中で売れているからといって、それが最高の料理ではないのと同じである。
世界の不条理や格差、デジタル監視社会といった現代の「怪物」に対して、僕たちが本当に読みたいのは、そのシステムをどうクラッシュさせるかという、人間の剥き出しの知略と行動のドラマである。
自分の内面の井戸に閉じこもって、
「やれやれ、僕のスコアは最低だけど、まあ静かにレコードでも聴こう」
などと呟く男の背中を、誰がいつまでも見ていたいと思うだろうか。そんなウジウジした姿を見せつけられれば、誰だってイライラし、
「いいから早く、その怪力の腕で壁をぶち破り、その知略でシステムをハッキングしろ!」
と怒鳴りたくなるのが、健全な人間の情動というものだ。
4 ノーベル賞の壁と、自慰文学の終焉
彼が毎年のようにノーベル文学賞の候補として騒がれながら、結局のところ、いつも受賞を逃し続けている理由も、まさにこの「ハスタベーション文学」の限界にある。
ノーベル賞の選考委員たちが求めているのは、個人のウジウジした内面ごっこではない。国家の暴挙、戦争の爪痕、民族の衝突といった、人類全体の過酷な運命に対して、文学がいかにして「正義」や「人間の尊厳」の旗を立て直すかという、太い骨格を持った決断のドラマである。
西洋のラテン文学の源流を汲む彼らにとって、村上春樹の描く「洗練された自慰」は、現代日本の小綺麗な風俗小説としては面白くとも、人類の魂を救済する「理想の文学」としては、あまりにも軽すぎて、底が浅いと見抜かれているに違いない。
彼がどれほどお洒落なジャズの銘柄を並べ、どれほど巧みな比喩を散りばめようとも、その底にあるのは、十六歳のホールデン少年がベッドの中でシーツを被って拗ねているだけの、閉じた世界だ。
文学とは、もっと獰猛で、もっと泥臭く、そして何より、読者の魂を一刀両断にする「決断の刃」でなければならない。
ウジウジと悩む時間を、自らの知略と行動によってねじ伏せ、他者を救うために地下の濁流へ飛び込んでいくバルジャンのような男。あるいは、神々の呪いをハッキングしてでも我が家へ帰還するオデュッセウスのような男。
僕たちが物語に本当に求めているのは、そうした「骨のある人間の生き様」なのだ。
村上春樹の「やれやれ」の時代は、もう終わりにしなければならない。
僕たちは、彼の茹ですぎたパスタの湯気の中に引きこもるのをやめて、もっと強靭な、漢文の論理と古典の骨格を持った、本当の「戦う文学」を市場に取り戻すべきである。




