Ⅲ. 小デュマ(『椿姫』の作者)からの酷評 - その原因
小デュマ(『椿姫』の作者)からの酷評 - イライラの原因
「命をかける価値なき、あまりに安価で冷え切った色恋沙汰」
父さん、そしてスティーヴンソンさん、あなた方の仰ることは全く正しい。
しかし、私にはこの東洋の作家が描く、恋愛とも呼べない代物が最も我慢ならない。
物語における男女の愛とは、時に社会のモラルや冷酷な階級制度と衝突し、命を削り合ってでも貫き通す、血の滴るような情念であるはずだ。
我がマルグリット(椿姫)を見たまえ。
彼女は高級娼婦という自らの汚れた立場を恥じ、愛するアルマンの家族の未来(名誉)を守るため、張り裂けそうな胸を抱えて、あえて彼を裏切るという『地獄のような自己犠牲の決断』を下した。結核で肺を病み、孤独に死にゆく瞬間まで、彼女の愛には「命そのものの重み」があった。
ところが、村上春樹の描く男たちの『色恋沙汰』には、その命の震えがひとかけらも存在しない。
彼らは「誰も傷つけたくない、自分も傷つきたくない」という、あまりにも吝嗇で冷え切ったエゴイズムの殻に閉じこもっている。
彼らにとっての女性とは、自分がパスタを茹でている部屋にどこからともなく都合よく現れ、音楽のスパイスのように性を提供し、自分の内面のウジウジしたモヤモヤを肯定してくれるためだけの「消費財」に過ぎない。
「やれやれ」と呟きながら、傷つく前に身を引いて、相手の身の上に何が起きようとも、ただレコードを聴きながら感傷に浸っている。
これのどこが『愛』なのだろうか?
これこそまさに、
あなたがたの言う
「ハスタベーション(精神的自慰)」の極みだ。
自分の脳内の心地よい井戸の中で、都合の良い妄想の泥に塗れているだけではないか。
本当にその女性を愛しているなら、なぜ社会のアルゴリズムに抗い、彼女の手を引いて泥沼の現実を走ろうとしないのか!
愛の葛藤から逃げてウジウジと悩む時間があるなら、早く傷つき、早く血を流し、一人の人間を救うために自らの平穏な人生をすべて投げ打って行動するべきだ。
彼らの描く冷めた男女の関係が、いかにスタイリッシュな翻訳調の言葉で飾られようとも、そこには人間の魂を揺さぶる「純愛」も「悲劇」もありはしない。
ただ、都会の贅沢な退屈のなかで、お互いの体温を都合よく貪り合っているだけの、あまりに安価で、退屈な、イライラさせられるおままごとだ。
大衆が何世紀も読み継ぐ愛の物語とは、そんな生ぬるい自慰の記録ではない。
自分の破滅を賭けてでも、
相手を愛し抜いた人間の「壮絶な決断の足跡」だけなのだ。




