エレハイム 7
近所に水深5センチくらいの浅い川があるのだが、そこに立ち入って水遊びをすることはかたく禁じられている。
こんな川で誰が溺れるのか、きまりを作った人は何を考えてるんだと思っていたが、この前の雨でとんでもなく増水していて、なるほどなと納得した。する時はあっという間に増水するもんだ。
あさはかなのは、こちらだった。
「死んだはずのワタシが自分のベッドで目を覚ましたのは、夜が明けた早朝デシタ。部屋の外がなにやらざわざわと騒がしい以外は、あまりにも普通の目覚めだったので、悪い夢でも見たのかと思ったほどデス。それどころか、死んだにしては元気と言いましょうか、ワタシの体は不自然なほど生気に満ち溢れ、ここ数年では記憶にないくらい活力に満ちてイマシタ。
ただ一点、気になったのは胸のあたりの違和感デス。刺されたはずの箇所に、痛みの伴わない小さな異物感があり、皮膚がつっぱってるような気がシマス。予感めいたものがよぎり、おそるおそる確認したワタシは、目玉が飛び出るかと思いマシタ。恩寵の宝珠ががワタシの体に半分ほど埋まっていたのデスカラ。
その時、ワタシの驚きの声に呼応するように扉が勢いよく開かれ、見知らぬ男が踏み入ってきマシタ。瞬間、ワタシの脳裏に昨晩の事がフラッシュバックし、無意識にワタシの髪が、恩寵が起動し、男を縛り上げてしまいマシタ。
けれど男は老齢の官憲であり、取り乱すワタシへ「落ち着くように」と言いながら、おおよその事情を説明してくれたのデス。
髪から解放された官憲によりますと、ワタシは物盗りに襲われ、心臓に傷を負ったものの、父親の術法によって治療されたとのことデシタ。「物盗りはすでに捕まり、お父さんのおかげで命も助かった。もはや心配することはなにもない。よかったじゃないか」…などとしょせんは他人事の感想を述べる官憲の男の肩越しに、彼の同僚がせわしなく現場検証を行っているのが見えマシタ。そんな彼らの足元、部屋の外の廊下に広がった、おびただしい血の跡が、ワタシに昨夜の出来事が現実だったと如実に語りかけてキマス。
まだ乾ききってない血だまりを他人事のように眺めながら、”ああやっぱり、夢じゃなかったんだ”とぼんやりするワタシの中には、ひとつのはっきりした確信がアリマシタ。ワタシはやはり一度命を落とし、すでに人間ではなくなってしまったということデス。「胸の宝珠から流れ込む膨大なマナが、宝珠のある限りワタシを動かし続けることになるだろう」…そんなストンと腑に落ちる感覚があったのデス。
けれども、奇妙に聞こえるかもしれませんが、ワタシは己の体が不死者のようになってしまったこと自体に、特に思うところはアリマセンデシタ。むしろ、戸惑ったのはワタシを救ったという父の行いに対してデス。
────父にも、あの男にも、人並みの親の情みたいなのが在ったのか…
最も大切だったであろう宝珠を。娘の命と引き換える…そんな思いやりを父が持っていた、そう考えるとワタシはなんだかむずがゆく、誇らしく、心が震え、目頭が熱くなり、今までの散々な仕打ちを忘れてしまいそうになりマシタ。
しかし、真相はそうではなかったのデス。産まれてから十数年という月日を経て、同じ時間を父と共に過ごしたにもかかわらず、ここに至ってもワタシは父の人間性を測り違えてイマシタ。
父は恐れていたのデス。孤独ヲ。
……などと言うと、人並みな、普遍的な人間性を想像されてしまうかもシレマセンネ。ですが父の恐れる孤独は、もっと俗物的デス。端的に言うなら、父は自分の世話をする人間がいなくなることを恐れてイマシタ。ワタシがいなくなれば、朝昼晩の食事、洗濯、掃除…それらをこなす者もいなくなる、父はそれを嫌ったのデス。本当に、ただそれだけなのデス。もしもこの時、他に家事を担う者がいたならば、たとえば母が逃げずにいたならば、ワタシはあっさり捨て置かれたデショウ。
その証に、父はワタシを蘇らせるにあたって、術法に三つの誓約を仕込んでイマシタ。
一つ、父を傷つけてはならナイ。一つ、父の言うことに服従しなければならナイ。一つ、前二者に反しない限り、ワタシは自らを守らなければならナイ。
ワタシを救ったのが娘を思いやる親心でないことは明らかデショウ?父は徹頭徹尾、自己愛と自分の都合しか頭にない男デシタ。そして、これらの誓約は、ワタシの意思とは無関係に、今もワタシの魂と体を縛り続けてイマス。
…どうやら父は、ワタシが家を捨てようとしていることに薄々勘づいていたようデス。ワタシに課せられた命令には、父の生命のある限り、家から離れてはならないというのが含まれてイマシタ。母に逃げられた事実が相当なトラウマとなっていたのデショウ。
さらには、恩寵の宝珠を奪われないためでもアリマス。父は体よく、ワタシを宝珠の番犬とシマシタ。三つ目の誓約によって、ワタシの恩寵は、ほとんど無意識に、自動的にワタシを守り、敵を討つようになったのデスカラ。そして宝珠の恩恵により、恩寵による絶対防御は、事実上マナ切れを起こすことなく無限に作動し続けられるのデス。
家事をさせつつ宝珠の保管場所としても完ぺきに機能する、ワタシは父にとって、これ以上なく都合のよかったことデショウ。
…以上がワタシの事情デス。この後の話に、語るべきことも、カタルシスのようなものも一切アリマセン。父は生涯を通して、変わらず傍若無人であり、なんら応報を受けることなく大往生シマシタ。
こうして父の課した誓約によって、ワタシの体は動き続け、宝珠を守ってイマス。ですが、父のいなくなった今、ワタシは誰からなんのために宝珠を守っているのデショウカ。無論ワタシも答えなどわかり切ってイマス。もはや意味などは無いト。
目的も存在意義も持たないワタシに許されたのは、ただ無為に彷徨うことだけデシタ。そうして気がつけば、引き寄せられるように暴凶竜グリモアの勢力圏…魔界の僻地へとたどり着いていたのデス。
ここであれば、ワタシの唯一の望み、穏やかに壊れることができるはずだったのデスガ…」
語り終えたエレハイムの瞳は、絶望の深さゆえだろうか、一切の光を飲み込むような昏さをたたえている。
「…お、お父さん、かなりクセのある人だったんだなー…」
何か声をかけなければ…となった公太郎は、口をついた自分の薄っぺらい感想に顔が引きつる思いだった。
…というか。
────どんだけ父親のことが嫌いやねん!!
脳内で関西弁になってしまうほど、エレハイムの話した事情とやらは、突き詰めると父親の文句しか言っていない。…まあ、話を聞いただけでも、かなりなモラハラ親父のようだから、さもありなんというところか。
とはいえ、どれほど怒りや恨みが忘れがたくとも、父親の死後相当の月日が経っても、ここまで心が捕らわれてるのは健全とは言えない、さっさと忘れてしまえ…などと正論めいたことを述べるつもりもない。エレハイムの受けた仕打ちは、負った傷は、所詮は外野の他人が気軽にアドバイスなどしていい類ではないからだ。
だが。
だからこそ、父親がエレハイムの評すところの人間のクズであるからこそ、公太郎は宝珠の入手に一種の希望を見出していた。
「宝珠の保管場所…というのは、エレハイムのお父さんがそう言ったんですかー?」
「イイエ、父が言ったわけではアリマセン。”保管場所”はワタシの父への印象からの言葉デス」
「なるほどー」
「しかし、父は間違いなくワタシをそう見てイマシタ。少なくとも、ワタシの命を救うために宝珠を使う男ではないのデス」
「…そこなんですよー。それなら、お父さんは必要な時に宝珠を取り出せるようにしていたはずではー…。だって『保管』なんですから、出せないとおかしいでしょうー?」
「取り出せるよう…確かに、父ならそうしていたとワタシも思いマス」
「その方法や手段に思い当たることはー?」
「アリマセン。結果的にそんな時は訪れませんでしたが、必要があれば、父はワタシに『心臓を差しだせ』とでも命じるつもりだったのではないデショウカ。そうなれば誓約によりワタシは従うしかアリマセンカラ」
「…あくまで俺の考えですけどー、それは絶対に無い…とまでは言いませんが、可能性は低いんじゃないでしょうかー。話を聞く限り、お父さんはエレハイムさんに宝珠と同じくらいの価値を見出してたはずなんですー」
「………??ハムタロという人、あなたは何を言ってるのデスカ?…ワタシにはわかりマス。あの男にはそういうまともな親子愛などアリマセン」
「親子愛ー…」
無表情に近い顔ながら、心外だと憤りを感じさせるエレハイムを横目に、公太郎は顎を撫でつけた。
『親子愛』…ここに至ってそんなワードが出るのは、口で散々こき下ろそうとも、本心では父親にそれを求めてたということだろうか。
けれども、エレハイムには気の毒だが、自分が言った「価値」とは、愛などという美しい感情を言い換えたものではない。父親がエレハイムの話通りの人物であるならば、自分に利益があるかどうかを算数の足し算引き算のような感覚で、娘の値段を測っていたはずだ。
そしてエレハイムの存在は、父親にとって自分の世話を一手に引き受け、さらには誓約により絶対服従という都合のよすぎるもの。まるでアニメとかでよく目にする、有能メイドが一人、仕えてくれてるような状況じゃないか。
有能メイドと言えば…連想するのは最近だとラピルだが、裏表も腹黒くもないラピルがそばに控え、あれこれ世話を焼いてくれると想像すると、不適切かもしれないが、正直ちょっぴりうらやましいぐらいだ。
それはそれとして、つまり。
エレハイムは、たかが宝珠を取り出すという1回の行為で失っていい人間ではない。これは、エレハイムに「存命中は自分の傍から離れるな」と命じていたことから、父親も同じ認識だったと断言できる。
もちろん、父親のエレハイムをどう見ていたかは、愛する娘などではなく、自分の意のままに操れる3本目の便利な腕のような感覚だっただろう。それでも、もしも宝珠を取り出せば、3本目とはいえ己の腕がもげる…なんてデメリットの大きすぎるシステムを構築するとは考えにくい。
…そうならば、やはりあるはずだ。エレハイムを傷つけず、安全に宝珠を取り出す方法が。
だが、どうやって…?
TIPS:エレハイムがアリの行列を好むのは、父親の世話という存在意義を失った彼女と異なり、目的を持って生きるアリがうらやましいため。エレハイムが穏やかな最期を望むのは、自己保存の誓約に彼女の意志が縛られてるため。




