第31話 画才はないで
その日、桜子は寄道をした。桜子が歩く通りには『綾小路通』なる由緒ある名前がついているものの、実態は細い路地で、その並びには昭和を彷彿させる建物が並んでいる。桜子はその一軒の前で立ち止まった。入口に掲げられた小さな木製看板に毛書体で描かれた『鎌塚工房』という文字だけが、ここが単なる住宅ではなく、何らの作業場であることを示している。
「こんにちは」
桜子は少々ガタついたアルミ製の引き戸を開けた。鍵はかかっておらず、暗い室内には人気がない。奥へ続く土間通路を進むとすぐに小上がりがあり、一人の中年男性が広い木製座卓の前で熱心に作業をしている。
「おじゃましますぅー」
桜子は作業の合間、中年男性が顔を上げた瞬間を見計らって声を掛けた。
「ああ、桜子ちゃんか。おこしやす。隼人か?」
「はい。もう帰ってはります?」
「うん。今、乾燥庫に居るわ。見てきてみ」
「おおきに。ほんならちょっとお邪魔します」
礼儀正しく頭を下げて、桜子は土間通路を先に進み、半開きになった扉から中を覗いた。
「はやたー、お疲れさん」
薄暗い倉庫の中で少年が振り返った。
「あれ、桜子? どないしたん?」
「あんな、ちょっと相談ゆうか、お願いゆうか、仕事の話やねん」
「仕事?」
手拭いで顔を拭きながらその少年、鎌塚隼太は乾燥庫から出て来た。
「仕事の話ってオヤジにゆうた?」
隼太は言いながら更に先へ進み、狭い中庭に桜子を誘った。所々に草の生えた小さな坪庭には、陶器製の腰掛がバラバラに置かれていて、隼太はさっさと座り伸びをする。桜子もその一つの座面を手で払うと、慣れた様子で腰掛けた。
「ちゃんとした仕事ちゃうんねん。隼太の練習みたいになるねんけど、同じクラスの子がな、そこ、文房具屋さんやってはるねんけど、可愛い京都風のアニメっぽい絵を描いた和風のペンを置きたいゆうてんねん。そんなん、あんまり見たことないやろ。せやから隼太、試しに描いてみぃひん?」
隼太は驚いて桜子を見た。
「また急にけったいな話、来てんな。せやけどアニメみたいな絵を蒔絵で描いたんて見たことないな」
「せやろ? せやから隼太描けへんかな。売れるような気ぃするねんけど、インバウンドの女の子に」
「そうかも知れへんな。日本のアニメ、人気やし、外国から聖地巡りしに来る人もようけ居てはるしな」
「初めからお金は取られへんと思うけど、慣れてきたら有名作家さんになれるかも知れへんで」
隼太は桜子に微笑みを見せた。
「桜子、おおきに。ええ話持って来てくれてんな。気持ちはめっちゃ嬉しいわ。せやけど俺、アニメとか可愛い絵はよう描かん。漆塗るだけや」
「はい?」
「下地は作れるで。ペン軸のベースの色は塗れるし、ちょっとした模様やったら入れられる。せやけどイラストはムリやな。そんな画才はないで」
「えー? それまじ?」
「うん。オヤジかて、そんな絵ぇ描いてんの見たことないやろ?」
「そう言われたらそうやけど…」
桜子はスクバから1冊のノートを取り出した。真新しいページを開き、シャーペンを差し出す。
「いっぺん描いてみて。せやな、ウサギさん」
隼太は止む無くノートを受け取って、シャーペンを握った。すぐにノートを返す。桜子は眉を顰めた。
「え? これ、お餅?」
「ちゃうわ、失礼な。ウサギやろ。和風がええやろ思うて、雪ウサギ描いてん!」
「えーー。お耳、あれへんやん。ってゆうか、どっちが前?」
「こっちや! 目ぇあるやろ。膨らんでる方がお尻!」
ノートを抱き締め、桜子は隼太に絶望的な視線を送った。
「ごめん。頼んだウチがアホやった」
「ちょう待てや。俺、漆は塗れるんやで。せやから俺が下地描いて、その上に絵付けしてもろたらええだけやろ。そんなん、ようある話や。餅は餅屋って言うやろ」
「ああ。これな」
桜子はノートのウサギらしきを指さした。
「それはウサギや!」
桜子は狭い坪庭から空を見上げた。隼太が言うことにも一理ある。分業すればいいだけのことだ。百花苑は文房具屋なのだから、絵描きの出入りもあるに違いない。どのみち下地カラーは必要なのだから、そこから和風にすればいいのだ。漆の下地はそれに相応しい。よし、その線で綴に返そう。 桜子は立ち上がり、隼太に向かって手をひらひらと振った。




