第9話 桜の日
第9話
桜の日
幸子が入所後、初めてのお花見の日。
桜は満開だった。
朝から施設の中が少し浮ついている。
「今日はお花見ですよー」
職員たちが明るく声をかける。
レクリエーション室には、
色紙で作られた桜の飾り。
利用者たちも、
どこか嬉しそうだった。
「外、久しぶりだねぇ」
「暖かいかしら」
「お花見なんて何年ぶりかしらねぇ」
幸子は、
静かにその声を聞いていた。
外。
その言葉だけで、
胸がざわつく。
朝食後、
真帆が部屋へ来た。
「西山さん、今日は外出なので上着お願いしますね」
「はい」
幸子は頷く。
入所した時に持ってきた薄いカーディガン。
袖を通す。
布の感触が、
妙に懐かしかった。
施設服ではない。
自分の服。
それだけで、
少しだけ“外の人間”へ戻れた気がした。
廊下へ出る。
他の利用者たちも準備している。
車椅子。
帽子。
膝掛け。
中村主任が人数確認をしていた。
「西山さん、今日はよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
幸子は穏やかに笑う。
中村も安心した顔をする。
もう幸子は、
問題利用者ではない。
少なくとも、
そう見せている。
玄関へ向かう。
自動ドアの前。
職員がカードキーをかざす。
ピッ。
ウィーン。
ガラス扉が開いた。
幸子は思わず息を止めた。
開いた。
外へ繋がっている。
ただそれだけのことなのに、
胸が苦しくなる。
「西山さん?」
真帆が振り返る。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
幸子は、
ゆっくり外へ出た。
風。
春の匂い。
少し湿った空気。
車の音。
遠くの工事音。
全部、
久しぶりだった。
幸子は立ち止まる。
太陽の光が、
頬に当たる。
暖かい。
外だ。
本当に外だ。
施設の車へ乗せられる。
シート。
窓。
街が流れていく。
コンビニ。
信号。
ドラッグストア。
高校生。
犬の散歩。
全部、
普通の世界だった。
幸子は窓を見つめる。
涙が出そうになる。
自分は、
こんな世界から切り離されていたのか。
たった1カ月。
でも、
ずっと長い時間だった気がする。
その時だった。
道路沿いに、
赤と黄色の看板が見えた。
マクドナルド。
春限定のポスター。
若い男女が店から出てくる。
高校生らしい男の子が、
ポテトをつまんで笑っていた。
幸子は、
目を離せなかった。
マクドナルド。
別に高級料理じゃない。
昔からある、
どこにでもある店。
でも、
今の幸子には、
そこへ入ることができない。
自分で注文して、
自分で払って、
好きな席へ座る。
それができない。
「西山さん?」
真帆の声。
「酔いました?」
「……ううん」
「もうすぐ着きますよ」
幸子は頷く。
車は公園へ入る。
桜並木。
満開だった。
「わぁ……」
利用者たちが声を上げる。
「綺麗ねぇ」
「今年はすごいわ」
職員たちも笑う。
幸子は車から降りる。
風で桜の花びらが舞う。
子供が走っていく。
母親が追いかける。
犬が吠える。
自転車が通る。
普通の世界。
生きている世界。
幸子は、
その場で立ち尽くした。
「西山さん、歩けますか?」
真帆が腕を支える。
「……うん」
幸子は歩き出す。
一歩。
また一歩。
地面の感触。
風。
太陽。
全部が、
あまりにも久しぶりだった。
公園のベンチへ座る。
他の利用者たちは、
桜を見ながら笑っている。
職員が写真を撮っていた。
「皆さん、こっち見てくださーい」
幸子は空を見る。
青かった。
自由な空だった。
その時、
小さな男の子が転びそうになる。
母親が慌てて手を掴む。
「危ない!」
男の子は笑う。
また走り出す。
幸子は、
その光景をじっと見つめた。
危ない。
だから止める。
それは正しい。
施設も同じだ。
転ばないように。
怪我しないように。
事故にならないように。
全部、
正しい。
なのに。
幸子は、
小さく呟いた。
「まだ世界はあった」
真帆が聞き返す。
「え?」
「ううん」
幸子は笑う。
「桜、綺麗ねぇ」
真帆も笑った。
「ですねぇ」
幸子は桜を見る。
その目は、
もう別のことを考えていた。
外。
人。
道路。
世界。
ここなら。
ここなら、
もしかしたら。
幸子の中で、
何かが静かに動き始めていた。




