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あなたのためです〜自由は、失って初めてわかる〜  作者: カトーSOS


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第10話 手紙

挿絵(By みてみん)



第10話

手紙


 あのお花見会から、1年が過ぎていた。


 施設は、いつもの静けさを保っている。


 白い廊下。


 テレビの音。


 ナースコール。


 食器の音。


 童謡。


 何も変わらない。


 まるで、

 あの日外へ出たこと自体が、

 夢だったみたいだった。


 でも、

 幸子の中では、

 何かが決定的に変わっていた。


 外には世界がある。


 まだ、

 自分はそこへ戻りたいと思っている。


 それを、

 はっきり自覚してしまった。


 朝。


 レクリエーション室。


 利用者たちが塗り絵をしている。


「西山さん、今日は何色にします?」


 真帆が笑う。


「そうねぇ」


 幸子も笑う。


 最近、

 職員たちは安心していた。


 幸子は穏やかだった。


 怒鳴らない。


 帰りたいと騒がない。


 ちゃんと食べる。


 ちゃんと笑う。


 “落ち着いた”。


 そう判断され始めている。


 幸子は、

 それを利用していた。


「西山さん、すっかり慣れましたねぇ」


 別の職員が笑う。


「そうかしら」


「最初は不安そうでしたもんね」


 幸子は小さく笑う。


 内心では、

 全く笑っていなかった。


 むしろ逆だった。


 落ち着けば落ち着くほど、

 管理が緩む。


 職員の視線が減る。


 だから、

 笑う。


 従う。


 歌う。


 折り紙も折る。


 全部、

 演技だった。


 その夜。


 消灯後。


 幸子は、

 静かに目を開けた。


 廊下の足音。


 夜勤職員の巡回。


 ナースステーションの話し声。


 最近、

 だいたいの時間がわかるようになっていた。


 今は巡回直後。


 次に来るまで、

 少し時間がある。


 幸子は、

 ゆっくりベッドから降りる。


 足音を立てない。


 慎重に。


 棚の奥から、

 小さなメモ帳を取り出す。


 レクリエーションで配られたものだった。


 ボールペンもある。


 幸子は机へ座った。


 心臓がうるさい。


 見つかったら。


 もし見つかったら。


 何を書いているのか聞かれる。


 取り上げられる。


 また、

 “問題行動”

 になる。


 幸子は深呼吸した。


 そして、

 紙へ書き始める。


『施設へ連絡しないでください』


 文字が震える。


『身内へ連絡しないでください』


 幸子は廊下を見る。


 静か。


 続ける。


『拘束がひどくなります』


 拘束。


 その言葉を書く時、

 手が止まった。


 本当にあったことなのに、

 自分で書くと、

 急に現実味が出る。


 幸子は、

 小さく息を吐く。


『スマホも現金もカードも取り上げられています』


 書きながら、

 幸子は思う。


 これを読んだ人は、

 どう思うのだろう。


 認知症老人の妄想。


 そう思われるかもしれない。


 施設批判。


 被害妄想。


 頭のおかしい老人。


 そう思われたら終わりだ。


 幸子は考える。


 感情的になってはいけない。


 冷静に。


 論理的に。


 ちゃんと伝えないと。


 幸子は、

 再びペンを走らせる。


『私は西山幸子、72歳です』


『名古屋市名東区社台三丁目』


『ショートステイのはずでした』


『帰宅を希望しています』


『弁護士か行政の人権担当へ連絡してください』


 書き終わる。


 幸子は、

 その紙をじっと見つめた。


 たった一枚。


 でも、

 今の自分には、

 これしかなかった。


 スマホもない。


 電話も自由じゃない。


 現金もない。


 だから、

 紙しかない。


 昔みたいに。


 幸子は紙を折る。


 小さく。


 さらに、

 ビニールへ入れる。


 レジ袋の切れ端。


 水に濡れないように。


 幸子は、

 ゆっくりトイレへ向かった。


 個室。


 白い便器。


 小さな手洗い。


 幸子はタンクの蓋へ手をかける。


 重い。


 ゆっくり持ち上げる。


 水の音。


 冷たい湿気。


 幸子はビニール袋を奥へ隠した。


 手を離す。


 蓋を戻す。


 ゴト。


 小さな音。


 幸子は息を止める。


 廊下。


 静か。


 誰も来ない。


 幸子は壁へ手をついた。


 膝が震えていた。


 たったこれだけのことで。


 でも、

 今の自分には、

 これが“違法行為”みたいに感じる。


 隠す。


 見つからないようにする。


 監視を避ける。


 まるで犯罪者だった。


 いや。


 違う。


 違うはずだ。


 幸子はゆっくり部屋へ戻る。


 ベッドへ座る。


 白い天井を見る。


 静かだった。


 施設はいつも通り。


 優しい。


 穏やか。


 安全。


 誰も怒鳴らない。


 誰も殴らない。


 なのに、

 幸子は思う。


 私は、

 助けを求める手紙を、

 トイレのタンクに隠している。


 それが、

 全部だった。


 窓の外では、

 夜風で桜が揺れていた。


 花びらが、

 暗闇の中を静かに流れていく。


 幸子は目を閉じる。


 次の外出の日まで、

 見つかりませんように。


 ただ、

 それだけを願っていた。

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