第11話 投函
第11話 投函
お花見会の日が、
再びやってきた。
去年の写真を見せながら、
職員たちが笑っている。
「今年も綺麗ですよー」
「西山さん、楽しみですね」
幸子は笑顔で頷いた。
「そうねぇ」
内心では、
心臓がうるさいほど鳴っていた。
トイレのタンク。
あそこに、
手紙はまだある。
見つかっていない。
たぶん。
いや、
もし見つかっていたら、
今頃もっと監視が厳しくなっている。
部屋のチェック。
行動確認。
また拘束。
そうなっていない。
だから、
まだ大丈夫。
幸子は、
ここ数日ずっと考えていた。
どうやって外へ出すか。
どこで落とすか。
誰に拾わせるか。
いや、
そんなことは選べない。
運だ。
最後は運。
朝食後。
利用者たちが順番に準備を始める。
帽子。
車椅子。
上着。
真帆が幸子へ声をかける。
「西山さん、今日は暖かいですねぇ」
「ほんとね」
「桜、まだ残っててよかったです」
幸子は頷く。
なるべく自然に。
いつも通り。
穏やかに。
“良い利用者”。
それを演じ続ける。
玄関。
カードキー。
自動ドア。
ウィーン。
外の風。
幸子は、
今日も少しだけ立ち止まった。
春の匂い。
車の音。
世界。
職員たちは、
そんな幸子を見て笑う。
「西山さん、外好きですねぇ」
「久しぶりだから」
「ですよね」
幸子は笑った。
車へ乗り込む。
利用者たちが並ぶ。
職員が人数確認。
中村主任の声。
「はい、全員いますね」
幸子は窓の外を見る。
コンビニ。
横断歩道。
バス停。
マクドナルド。
普通の街。
それを見ているだけで、
涙が出そうになる。
公園へ到着。
桜。
風。
子供たち。
犬の散歩。
幸子は、
周囲を静かに観察する。
人。
一般の人。
施設関係者ではない人。
走っている男性。
スマホを見ている若い女性。
ベンチで話す夫婦。
誰でもいい。
誰か。
幸子はポケットへ触れる。
薄い紙の感触。
昨夜、
タンクから取り出した。
何度も折り直した。
小さく。
目立たないように。
幸子は深呼吸する。
今しかない。
もし失敗したら。
もし職員に見られたら。
もう二度と、
外へ出してもらえないかもしれない。
足が震える。
「西山さん、大丈夫ですか?」
真帆が支える。
「……うん」
幸子は笑う。
「ちょっと疲れちゃって」
「ベンチ座ります?」
「そうねぇ」
ベンチへ向かう。
その途中だった。
幸子は、
ゆっくり手を開く。
紙。
白い小さな紙。
風。
落ちる。
地面。
桜の花びらの間へ、
紛れる。
幸子は、
前を向いたまま歩く。
振り返らない。
見てはいけない。
見たら不自然になる。
心臓が痛いほど鳴っている。
「西山さん?」
「……うん?」
「本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
幸子は笑う。
「桜、綺麗ねぇ」
真帆も笑う。
「ですねぇ」
ベンチへ座る。
幸子は、
前だけを見る。
見ない。
紙を見ない。
誰かが拾うかも見ない。
知らない。
自分は知らない。
そうしなければ。
幸子は膝の上で、
手を強く握った。
数分。
いや、
数十分だったかもしれない。
時間の感覚がなくなる。
職員たちの声。
子供の笑い声。
犬。
風。
全部、
遠く聞こえる。
その時。
遠くで、
誰かがしゃがむ姿が見えた。
男性?
何かを拾っている。
幸子の呼吸が止まる。
男は紙を見る。
少し首を傾げる。
それから、
ポケットへ入れた。
幸子は、
思わず目を閉じた。
お願い。
お願いだから。
施設へ渡さないで。
家族へ連絡しないで。
笑い話にしないで。
頭のおかしい老人だと、
捨てないで。
「西山さん?」
真帆が声をかける。
「眠いですか?」
幸子はゆっくり目を開ける。
「……ううん」
「そろそろ戻りますよ」
「そう」
幸子は立ち上がる。
脚が震えていた。
怖かった。
全部。
今、
自分の運命を、
見知らぬ誰かへ預けた。
たった一枚の紙で。
施設へ戻る車の中。
利用者たちは楽しそうに話している。
「綺麗だったねぇ」
「また来年も見たいねぇ」
幸子は窓の外を見る。
桜が流れていく。
もう、
戻れない気がした。
もし失敗したら。
もし誰にも届かなかったら。
もし施設へ戻されたら。
幸子は、
静かに両手を握りしめる。
窓へ映る自分の顔は、
ひどく老けて見えた。




