第12話 沈黙
第12話 沈黙
何も起きなかった。
一日。
二日。
三日。
施設はいつも通りだった。
朝六時起床。
朝食。
薬。
レクリエーション。
昼食。
テレビ。
夕食。
消灯。
全部、
同じ。
何一つ変わらない。
幸子は、
食堂の窓際でお茶を飲んでいた。
外では、
桜が少しずつ散り始めている。
風が吹くたび、
花びらが道路へ流れていった。
「西山さん、お茶おかわりします?」
真帆が笑う。
「お願い」
「はい」
いつも通り。
普通。
優しい。
幸子は、
その“普通”が怖かった。
あの手紙はどうなったのだろう。
捨てられたのだろうか。
ゴミだと思われたのか。
読まれて笑われたのか。
それとも。
施設へ届けられたのか。
もしそうなら。
幸子は無意識に、
周囲を見てしまう。
職員の視線。
ナースステーション。
部屋。
でも、
何も変わっていない。
監視も増えていない。
拘束もない。
つまり、
見つかってはいない。
なら。
なら、
やっぱり誰にも届かなかったのだ。
幸子は、
急に身体が重くなる。
あれが最後だった。
スマホもない。
電話も自由じゃない。
現金もない。
カードもない。
外へ出られる機会もほとんどない。
だから、
あの紙だけだった。
たった一枚の紙。
それが消えた。
午後。
レクリエーション室。
今日は塗り絵だった。
「西山さん、綺麗ですねぇ」
真帆が幸子の塗った花を見る。
「そう?」
「色使い上手です」
幸子は笑う。
「昔、浩介とよく塗ったの」
「優しいお母さんですねぇ」
幸子は、
少しだけ胸が痛んだ。
浩介は悪人じゃない。
本当に。
小さい頃、
熱を出したら一晩中看病した。
弁当も作った。
大学の入学式も覚えている。
就職した日も。
結婚式も。
全部。
だから、
今でもわかる。
浩介は、
本気で“安全”だと思っている。
母親を守っているつもりなのだ。
その時。
隣の利用者が言った。
「ここ、楽でいいよねぇ」
七十代後半くらいの女性。
穏やかな顔。
「ご飯出るし、
転ばないし」
「そうねぇ」
別の利用者も笑う。
「家だと一人だし」
「息子も安心してるわ」
幸子は、
その会話を静かに聞いていた。
もしかしたら。
もしかしたら、
自分がおかしいのだろうか。
ここは安全だ。
食事もある。
見守りもある。
転倒もしない。
職員も優しい。
だったら、
何が不満なのか。
幸子は、
ふと自分がわからなくなる。
私は、
わがままなのだろうか。
年を取ったのに、
自由だなんだと騒いでいるだけなのか。
その瞬間、
胸の奥から、
強い恐怖が湧いた。
違う。
違う。
幸子は思う。
私は、
帰りたいだけだ。
自分の家へ。
自分の生活へ。
自分で選ぶ世界へ。
でも、
その感覚すら、
ここにいると少しずつ曖昧になっていく。
毎日、
同じ時間。
同じ食事。
同じ声。
同じ廊下。
同じテレビ。
考える力が、
静かに削られていく。
夕方。
幸子は部屋へ戻った。
窓際へ座る。
外では、
小学生が帰っていく。
ランドセル。
笑い声。
自転車。
普通の街。
幸子はガラスへ手を触れる。
冷たい。
その時、
急に思った。
もし、
このまま何年もここにいたら。
自分は、
本当にここが“家”になるのだろうか。
折り紙を折って。
童謡を歌って。
穏やかに笑って。
「ここは安全ねぇ」
と言う老人になるのだろうか。
幸子は、
静かに首を振る。
嫌だった。
でも、
どうすればいいのかわからない。
助けは来ない。
誰も来ない。
窓の外では、
桜の花びらが一枚、
風に流されていった。
幸子は小さく呟く。
「……誰にも、
届かなかったのね」
その声は、
静かな部屋へ溶けて消えた。
その夜。
消灯後。
廊下の向こうから、
職員たちの笑い声が聞こえる。
「西山さん、
最近ほんと落ち着きましたよね」
「よかったですよねぇ」
「最初ちょっと不安定でしたもんね」
幸子は、
布団の中で目を閉じた。
“落ち着いた”。
それはつまり。
諦め始めた、
ということなのかもしれなかった。




