第6話 拘束
第6話 拘束
その日の午後、
幸子はずっと落ち着かなかった。
電話。
たった一本の電話すら、
自由にかけられない。
その事実が、
頭から離れなかった。
レクリエーション室では、
他の利用者たちが歌を歌っている。
「みかんの はなが
さいている――」
童謡。
手拍子。
テレビの笑い声。
幸子は窓際の椅子へ座り、
ぼんやり外を見ていた。
桜は、
もうほとんど満開だった。
外では、
スーツ姿の男が歩いている。
スマホを見ながら、
コンビニ袋を下げている。
普通の人間。
普通の生活。
幸子は、
急に息が苦しくなった。
私は、
どうしてここにいるのだろう。
少しだけのはずだった。
リハビリだけのはずだった。
なのに、
帰る話は出ない。
電話もできない。
スマホもない。
財布もない。
外へも出られない。
それなのに、
誰も異常だと言わない。
「西山さん?」
真帆が近づいてくる。
「大丈夫ですか?」
「……帰りたい」
「え?」
「家へ帰りたいの」
真帆は少し困った顔をした。
「今はまだ危ないですよ」
「歩けるわよ」
「転倒すると大変ですから」
「またそれ?」
幸子は思わず強い声を出した。
周囲の利用者たちが、
一瞬こちらを見る。
真帆は慌てる。
「西山さん、落ち着いて」
「私は帰りたいだけなの!」
「ご家族も心配されていますから」
「浩介と話させて!」
「確認しますから」
「確認、確認って!」
幸子は立ち上がる。
杖が床を強く叩いた。
レクリエーション室が静かになる。
童謡が止まる。
テレビだけが笑っている。
「私は子供じゃないのよ!」
幸子は叫んだ。
「どうして電話一本、自分でできないの!」
「西山さん!」
中村主任が来る。
落ち着いた声。
だが表情は固い。
「危ないですから、座りましょう」
「危ないのはあなたたちでしょう!」
「落ち着いてください」
「帰らせて!」
幸子は、
近くにあった軽いリハビリ器具を掴んだ。
ゴムボールの入った小さなラック。
それを壁へ投げる。
ガタン!!
大きな音。
利用者の一人が悲鳴を上げる。
真帆が青ざめる。
「西山さん!」
「帰るの!」
「危険行為です!」
「危険なのはここよ!!」
幸子の声が、
施設中へ響いた。
その瞬間だった。
急に、
周囲の空気が変わる。
優しかった職員たちの顔が、
一斉に“対応モード”になる。
「佐々木さん、他利用者さん離してください!」
「はい!」
「西山さん、こちらへ!」
「触らないで!」
幸子は腕を振る。
職員が支える。
逃げようとしたわけではない。
叩いたわけでもない。
でも、
もう周囲は、
幸子を“危険”として扱い始めていた。
「落ち着きましょう!」
「いや!」
「転倒します!」
「離して!」
幸子は、
初めて本気で怖くなった。
誰も怒鳴っていない。
暴力もない。
なのに、
自分が制圧されていく。
「西山さん!」
中村が言う。
「安全のためです!」
その言葉が、
幸子の胸へ突き刺さる。
安全。
安全。
安全。
全部、
その言葉で決まる。
幸子は部屋へ戻された。
夕食は部屋食になった。
真帆が運んでくる。
「……ご飯です」
幸子は返事をしなかった。
真帆も辛そうだった。
「西山さん」
「……」
「少し興奮されていましたから」
「……」
「皆さん、心配してます」
幸子は、
顔を上げた。
「私はそんなにおかしい?」
真帆は答えられなかった。
沈黙。
それが余計につらかった。
夜。
消灯後。
幸子は眠れなかった。
昼のことを思い出す。
利用者たちの顔。
職員たち。
危険行為。
問題利用者。
そんな言葉が、
頭の中を回る。
ガチャ。
部屋の扉が開いた。
中村と、
男性職員が二人入ってくる。
「西山さん」
中村は静かに言った。
「少し安全対応をさせていただきます」
「……なに?」
「転倒防止です」
「私は寝てるだけでしょう」
「夜間に興奮される可能性がありますので」
「興奮なんかしてないわ」
「念のためです」
男性職員が、
ベッド柵を上げる。
白い布。
包帯。
幸子は息を止めた。
「……やめて」
「すぐ終わりますから」
「やめて!」
「危ないですから」
「私は犯罪者じゃない!」
中村は、
本当に悲しそうな顔をした。
「西山さんのためです」
包帯が、
手首へ巻かれる。
柔らかい。
強く締めてはいない。
だが、
外れない。
「いや……」
足首も固定される。
ベッド。
白い天井。
動けない身体。
幸子は呼吸が浅くなる。
「少しだけですから」
「落ち着いたら外します」
「転倒すると危ないので」
優しい声。
怒鳴り声はない。
それが余計に怖い。
職員たちは、
本当に“守っている”つもりなのだ。
幸子は天井を見る。
白かった。
静かだった。
遠くで、
ナースコールが鳴る。
誰かの咳。
テレビの音。
夜勤職員の足音。
世界はいつも通り動いている。
なのに、
自分だけが縛られている。
幸子は、
涙が出た。
静かに。
声を出さず。
ただ涙だけが流れる。
「私は……」
小さく呟く。
「私は犯罪者なのか」
答える人はいなかった。
白い天井だけが、
そこにあった。




