第5話 電話
第5話 電話
その夜、
幸子は眠れなかった。
消灯時間は九時。
部屋の電気が消え、
廊下だけが薄く明るい。
遠くでテレビの音がしている。
誰かの咳。
車椅子のブレーキ音。
ナースコール。
施設の夜は静かだった。
静かすぎた。
幸子は天井を見る。
白い天井。
病院と同じ色。
違うのは、
ここには退院予定表がないことだった。
幸子は寝返りを打つ。
眠れない。
胸の奥が、
ずっとざわざわしていた。
「ここがお家ですよ」
昼間の中村の言葉が、
何度も頭に浮かぶ。
違う。
ここは家じゃない。
自分の家には、
冷蔵庫があった。
仏壇があった。
観葉植物があった。
ベランダがあった。
自由があった。
幸子は小さく息を吐く。
それから、
ふと思った。
電話。
電話なら。
スマホが駄目なら、
施設の電話を借りればいい。
浩介に直接聞けばいい。
「いつ帰れるの?」
そう聞くだけだ。
普通のことだ。
翌朝。
朝食後、
幸子はナースステーションへ向かった。
中村はいなかった。
代わりに、
真帆が記録を書いている。
「あら、西山さん」
「真帆さん」
「どうしました?」
幸子は、
なるべく穏やかに言った。
「電話を借りたいんだけど」
「お電話ですか?」
「うん」
「浩介さんへですか?」
「……まあ、それでもいいけど」
本当は違った。
昔の知人へ電話したかった。
夫の友人だった人。
それか、
以前マンション管理の件で世話になった弁護士。
とにかく、
家族以外の誰かと話したかった。
でも、
それを言うべきではない気がした。
「少々お待ちくださいね」
真帆は立ち上がる。
それから、
どこかへ確認へ行った。
幸子はその姿を見ながら、
少し違和感を覚える。
電話を借りるだけなのに、
なぜ確認が必要なのだろう。
しばらくして、
真帆が戻ってきた。
「西山さん」
「はい」
「どちらへおかけになりますか?」
「え?」
「電話先なんですが」
幸子は瞬きをした。
「どうして?」
「確認が必要なので」
「確認?」
「はい」
「誰に?」
真帆は、
少し困った顔になる。
「ご家族ですね」
幸子は、
一瞬言葉を失った。
「どうして、私の電話を息子に確認するの?」
「トラブル防止のためです」
「トラブル?」
「はい」
「私は電話したいだけよ?」
「もちろんです」
真帆は慌てて言う。
「ただ、規則なんです」
規則。
またその言葉だった。
「私は子供じゃないのよ」
「わかっています」
「だったら」
「ご家族も心配されていますから」
幸子は、
真帆を見る。
真帆は本当に困っていた。
悪意ではない。
責めているわけでもない。
ただ、
ルール通りに動いている。
それだけ。
幸子は急に疲れた。
「……じゃあ、浩介に電話してください」
「はい」
「今できますか?」
「確認してみますね」
確認。
確認。
確認。
幸子は、
その言葉が嫌いになり始めていた。
真帆は内線電話をかける。
小さな声で、
何か話している。
幸子には聞こえない。
しばらくして、
真帆が戻ってきた。
「今日はお仕事中みたいで」
「そう……」
「また折り返しがあればお伝えしますね」
「そう」
幸子は小さく頷く。
それだけだった。
電話はできなかった。
たったそれだけのことなのに、
胸の奥が重かった。
幸子は部屋へ戻る。
窓際へ座る。
外では、
宅配トラックが止まっていた。
運転手が段ボールを抱えている。
Amazonだった。
青いロゴ。
幸子は、
ぼんやりそれを見つめる。
そういえば、
洗剤を買おうと思っていた。
柔軟剤も切れかけていた。
あと、
歯ブラシも。
Amazonを開けば、
すぐだった。
スマホで押すだけ。
翌日には届く。
それが普通だった。
でも今は違う。
スマホがない。
カードもない。
住所もある。
口座もある。
名前もある。
なのに、
自分で何も買えない。
幸子は急に怖くなった。
社会との繋がりが、
一つずつ切れている気がした。
電話。
買い物。
外出。
全部、
自分の意思だけではできない。
窓の外では、
配達員が次の荷物を持って走っている。
普通の世界だった。
幸子は、
ガラスへそっと手を触れた。
冷たかった。
その時、
廊下から真帆の声が聞こえた。
「西山さんー」
明るい声。
「午後からレクリエーションありますよー」
幸子は返事をしなかった。
窓の外を見続ける。
春の風が、
桜を揺らしていた。
幸子は静かに思った。
私は、
いつからこんなに遠くへ来てしまったのだろう。




