第4話 ここがお家ですよ
第4話 ここがお家ですよ
施設へ来てから、
一ヶ月が過ぎていた。
四月。
窓の外では、
桜が満開になっていた。
幸子は朝食を終え、
食堂の窓から外を見ていた。
青空。
風に揺れる桜。
道路を歩くスーツ姿の男。
自転車に乗った女子高生。
普通の朝だった。
自分だけが、
そこへいない。
「西山さん、お茶どうぞ」
真帆が湯呑みを置く。
「ありがとう」
幸子は受け取る。
温かい。
施設の人たちは、
本当に優しかった。
だから困る。
怒れない。
食事は出る。
薬も管理してくれる。
転ばないよう見てくれる。
夜も巡回がある。
息子夫婦だって、
悪気はない。
それはわかっている。
わかっているのに、
胸の奥に、
何か重いものが溜まっていく。
「今日はいい天気ですねぇ」
真帆が窓の外を見る。
「そうね」
「お花見したいですね」
幸子は少し笑った。
「外、出られるの?」
真帆は一瞬だけ困った顔をした。
「桜見学の日がありますから」
「今日は?」
「今日は通常日なので」
通常日。
その言葉が、
幸子は嫌だった。
食後、
他の利用者たちは、
テレビの前へ集まっていく。
朝の情報番組。
司会者が笑っている。
真帆は、
別の利用者の車椅子を押していた。
幸子は静かに立ち上がる。
杖をつき、
ゆっくり歩く。
玄関の方向へ。
誰も止めない。
廊下は静かだった。
窓から、
春の光が入っている。
幸子は、
急に外へ出たくなった。
本当に、
少しだけ。
コンビニへ行きたいわけじゃない。
逃げたいわけでもない。
ただ、
外の空気を吸いたかった。
自動ドアの前まで来る。
ガラスの向こうに、
道路が見えた。
犬を散歩させている女性。
風で揺れる桜。
幸子は一歩前へ出る。
自動ドアは――
開かなかった。
幸子は立ち止まる。
もう一歩。
近づく。
開かない。
「あれ……?」
幸子は、
ガラスの前で立ち尽くした。
病院の自動ドアは、
近づけば開いた。
スーパーも、
コンビニも、
マンションも。
でも、
ここは開かない。
その時、
後ろから声がした。
「西山さん?」
中村主任だった。
「どうされました?」
幸子は振り返る。
「あの、少し外へ」
「お一人では危ないですよ」
中村は穏やかに言った。
「転倒すると大変ですから」
「少しだけよ」
「申し訳ありません」
「職員付き添いが必要なんです」
幸子はガラスの向こうを見る。
すぐそこに外がある。
なのに出られない。
「帰ります」
気づけば、
そう言っていた。
中村は少し黙った。
それから、
柔らかく笑った。
「西山さん」
「はい」
「ここがお家ですよ」
幸子は、
一瞬意味がわからなかった。
「……違います」
「え?」
「私の家は名東区です」
「もちろん、わかっています」
「だったら」
「今はこちらで生活されていますから」
幸子は中村を見る。
中村は怒っていない。
困ってもいない。
本当に、
優しい顔だった。
だから余計に怖かった。
「息子を呼んでください」
「ご家族もお忙しいので」
「電話なら」
「確認しておきますね」
確認。
またその言葉。
「私は帰ります」
「西山さん」
中村は静かに言った。
「今は危ないです」
「歩けるわよ」
「転倒したら?」
「気をつけます」
「また骨折したら?」
幸子は言葉を失う。
「ご家族も心配されています」
ご家族。
安全。
転倒。
規則。
西山さんのためです。
全部、
正しい言葉だった。
正しいはずなのに、
なぜこんなに苦しいのだろう。
幸子はガラスへ手を触れた。
冷たい。
透明なのに、
壁だった。
外では、
小学生が走っていく。
笑い声。
自転車のベル。
春の匂い。
全部、
ガラスの向こうにある。
「……少しだけ」
幸子は小さく言った。
「少しだけ外へ出たいだけなの」
中村は困ったように笑った。
「今度、桜見学がありますから」
「そうじゃなくて」
「皆さん楽しみにされていますよ」
皆さん。
またその言葉だった。
幸子は、
急に疲れた。
「……わかりました」
そう言うしかなかった。
中村は安心したように笑う。
「ありがとうございます」
何に対する、
ありがとうなのだろう。
幸子はゆっくり部屋へ戻る。
廊下の途中、
レクリエーション室から、
童謡が聞こえてきた。
「さくら さくら
のやまも さとも――」
誰かが手拍子をしている。
幸子は立ち止まった。
ふと、
思う。
もし。
もし今、
大声で怒ったら。
無理に外へ出ようとしたら。
自分はどうなるのだろう。
問題利用者。
危険。
要注意。
そんな言葉が、
頭に浮かぶ。
幸子は急に怖くなった。
部屋へ戻る。
扉を閉める。
ベッドへ座る。
静かだった。
窓の外では、
桜が揺れている。
幸子は、
小さく呟いた。
「……ここは、
家じゃない」
その声は、
誰にも届かなかった。




