第3話 帰る日
第3話
帰る日
施設へ来てから、
三週間が過ぎていた。
朝六時。
廊下の向こうから、
車椅子のブレーキ音が聞こえる。
カチャ。
カチャ。
静かな施設の朝だった。
幸子は目を開ける。
薄いカーテンの隙間から、
朝の光が入っていた。
白い天井。
最近、
病院と施設の違いが、
少しわからなくなってきていた。
違うのは、
ここには「退院日」がないことだった。
「西山さん、おはようございます」
真帆が部屋へ入ってくる。
若い介護士。
今日も明るい声だった。
「よく眠れました?」
「まあまあね」
「朝ご飯、もうすぐですよ」
「はいはい」
幸子は身体を起こす。
脚の痛みは、
だいぶ減っていた。
杖があれば歩ける。
リハビリの先生にも、
「かなり順調ですね」
と言われている。
だったら、
そろそろ帰れるはずだった。
朝食は食堂だった。
ご飯。
味噌汁。
焼き鮭。
ひじき。
牛乳。
悪くない。
むしろ、
ちゃんとしている。
他の利用者たちは、
静かに食べていた。
テレビでは朝のニュースが流れている。
桜の開花情報。
今年は満開が早いらしい。
「西山さん、お魚残さず食べてえらいですねぇ」
真帆が笑う。
「子供じゃないんだから」
幸子も笑った。
真帆は悪い子ではない。
むしろ親切だ。
食事の時も、
よく気を配ってくれる。
だからこそ、
幸子は時々わからなくなる。
自分は、
何に不安を感じているのだろう。
食後、
幸子はリハビリ室へ向かった。
平行棒。
ゴムボール。
歩行訓練。
理学療法士の男性が言う。
「かなり安定してきましたね」
「そう?」
「はい。この調子なら、日常生活もだいぶ」
幸子は少し嬉しくなる。
だったら、
帰れる。
そう思った。
昼過ぎ。
部屋へ戻った幸子は、
窓際へ座っていた。
外では、
近所の小学生らしい声が聞こえる。
春休みなのだろう。
遠くで犬が鳴いた。
普通の街の音だった。
幸子は、
急に自分の部屋を思い出した。
台所。
ベランダ。
観葉植物。
冷蔵庫の中。
洗濯物。
郵便受け。
電気代の紙、
まだ置いたままだったかもしれない。
Amazonで買おうと思っていた洗剤も、
そのままだ。
「あ」
幸子は、
無意識に手元を探る。
スマホ。
いつもの癖だった。
ない。
そうだった。
預けている。
幸子は小さく息を吐く。
それから、
立ち上がった。
今日は聞こう。
ちゃんと。
帰る日を。
ナースステーションには、
中村主任がいた。
眼鏡をかけ、
何か記録を書いている。
「あの、中村さん」
「はい、西山さん」
中村は顔を上げる。
「どうされました?」
幸子は少し迷った。
怒ってはいけない。
感じ良く。
普通に。
「あのね、私、そろそろ帰れるのかしら」
中村は一瞬だけ黙った。
それから、
柔らかく笑った。
「そうですねぇ」
「かなり歩けるようになったでしょう?」
「はい、順調です」
「だったら」
「西山さん、もう少し様子を見ましょう」
幸子は瞬きをした。
「様子見?」
「はい。まだ転倒リスクがありますから」
「でも、リハビリの先生は順調だって」
「ええ。ただ、ご自宅でお一人ですと心配ですし」
「私は一人で生活してたわよ」
「もちろんです」
中村は穏やかに頷く。
「ですが、ご家族も心配されています」
また、
その言葉だった。
ご家族。
「浩介に電話したいんだけど」
「お伝えしておきますね」
「じゃなくて、自分で話したいの」
「はい」
「スマホを返してもらえる?」
中村の笑顔が、
少しだけ困ったものになる。
「申し訳ありません」
「規則で、お渡しできないんです」
「でも、私のスマホよ?」
「はい」
「だったら」
「安全管理上、お預かりしていますので」
「安全管理……」
幸子は繰り返した。
「電話くらい、自分でできるわ」
「もちろんです。ただ、紛失やトラブル防止のために」
「私は子供じゃありません」
少し強い声になった。
中村は慌てず、
静かに答える。
「そうですよね」
「ですが、皆さん同じ決まりなんです」
皆さん。
その言葉が、
幸子は嫌だった。
私は、
皆と同じなのか。
中村は続ける。
「ご家族へはこちらからご連絡しますので」
「自分で話したいの」
「はい。お気持ちはわかります」
「だったら」
「西山さんのためですから」
幸子は黙った。
西山さんのためです。
その言葉が、
今日は妙に冷たく聞こえた。
「……わかりました」
幸子はそう言って、
部屋へ戻った。
怒るほどではない。
たぶん。
規則なのだろう。
施設なのだから。
でも。
幸子はベッドへ腰を下ろした。
窓の外を見る。
マンションのベランダが見える。
洗濯物が揺れていた。
あの中の誰かは、
自由に外へ出られる。
コンビニへ行ける。
スーパーへ行ける。
スマホを触れる。
好きな時に電話できる。
幸子は、
急に胸がざわついた。
自分は、
いつ帰れるのだろう。
いや。
本当に、
帰れるのだろうか。
その時、
廊下の向こうから、
童謡が聞こえてきた。
「ふるさと」の歌だった。
誰かが音を外している。
幸子は静かに目を閉じた。
その歌が、
なぜか少しだけ怖かった。




