第18話 自由
第18話 自由
タクシーのドアが閉まる。
静かな音だった。
それだけなのに、
幸子は少し息を呑んだ。
閉じ込められる音ではなかった。
外へ向かう音だった。
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運転手がバックミラー越しに聞く。
「どちらまで?」
山口が答える。
「名東区社台です」
「はい」
タクシーがゆっくり動き出す。
ひだまり苑の建物が、
少しずつ遠ざかっていく。
白い壁。
ガラス窓。
整った植え込み。
静かな玄関。
幸子は、
窓の外を見つめていた。
怒りはなかった。
憎しみも、
不思議となかった。
ただ、
長い夢から覚めたような気分だった。
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道路へ出る。
信号。
コンビニ。
横断歩道。
自転車。
制服姿の高校生。
犬を散歩させる女性。
スーツ姿の男。
工事現場。
赤信号で止まる車列。
全部、
普通の街だった。
でも、
幸子には、
それがまぶしかった。
施設の中では、
季節も、
時間も、
少し曖昧になる。
毎日同じ時間に起き、
同じ時間に食事をし、
同じテレビを見て、
同じ廊下を歩く。
外の世界は、
もっと雑音が多かった。
だから、
生きている感じがした。
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幸子は、
膝の上の財布を見た。
まだ、
少し信じられない。
財布を開く。
千円札。
診察券。
ポイントカード。
レシート。
小銭。
全部、
自分のものだった。
自分で持っていいものだった。
施設では、
財布は危険物みたいに扱われていた。
盗難防止。
紛失防止。
トラブル防止。
理由は全部正しかった。
でも、
財布を持てないということは、
自分で決められないということだった。
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幸子は、
そっと鍵を握る。
冷たい金属。
少し手に食い込む。
その感触が、
妙に嬉しかった。
山口が、
静かに声をかける。
「西山さん」
「はい」
「体調のこともありますので、
今後については、
また支援を考えていきましょう」
「はい」
「一人で全部抱え込まないようにしてください」
幸子は小さく笑った。
「ありがとうございます」
山口は、
少し迷ってから言う。
「……手紙、
怖くなかったですか」
幸子は、
窓の外を見たまま答える。
「怖かったです」
「見つかったら終わりだと思っていました」
「それでも、
書かれたんですね」
「はい」
幸子は、
少しだけ黙る。
「自分でも、
何が正しいのかわからなかったんです」
山口は黙って聞いている。
「施設の人も、
悪い人じゃありませんでした」
「はい」
「ご飯もちゃんと出ましたし、
転ばないようにもしてくれました」
「……はい」
「でも、
私は、
だんだん自分で考えなくなっていったんです」
幸子は、
窓へ映る自分を見る。
「何時に起きるかも、
何を食べるかも、
誰に電話するかも、
全部決まっていて」
「そのうち、
帰りたいって思うことすら、
悪いことみたいになっていって」
山口は、
静かに息を吐いた。
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タクシーは、
大きな交差点を曲がる。
窓の向こうに、
桜並木が見えた。
葉桜になりかけている。
花びらが、
風に流れていく。
幸子は、
ふと思い出す。
あの日。
公園。
桜。
手紙。
風。
あの紙を、
誰かが拾った。
顔も知らない誰か。
名前も知らない誰か。
その人が、
自分を世界へ戻してくれた。
幸子は、
山口へ聞く。
「手紙を拾った方は……」
「はい」
「どんな方だったんですか」
山口が答える。
「大学生の男性だそうです」
「大学生……」
「ランニング中に拾ったそうです」
「そうですか」
「最初は、
いたずらかと思ったそうですが、
内容が気になって、
市役所へ持ってきてくれました」
幸子は、
ゆっくり頷く。
「そうですか……」
それ以上、
言葉が出なかった。
ありがとう、
と言いたかった。
でも、
その相手はもういない。
名前も知らない。
会うこともない。
それでも、
その善意だけが、
確かに存在していた。
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しばらくして。
幸子は、
前を向いたまま言う。
「すみません」
運転手がミラーを見る。
「はい?」
幸子は、
少しだけ迷った。
でも、
言った。
「マクドナルド、
寄っていただけますか」
運転手が、
少し笑う。
「はい。
近くのところでいいですか?」
「はい」
山口が、
幸子を見る。
幸子も、
少し照れたように笑った。
「ずっと、
食べてなかったんです」
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タクシーが、
ゆっくり車線を変える。
赤い看板が見えた。
黄色い“M”。
ありふれた店。
誰でも入れる店。
でも、
幸子にとっては、
ようやく辿り着いた場所だった。
タクシーは、
その店へ向かって走っていく。
幸子は、
財布を握る。
鍵を握る。
窓の外には、
春の光が広がっていた。




