第14話 手紙の理由
第14話 手紙の理由
面談室は静かだった。
廊下の向こうから、
かすかにテレビの音が聞こえる。
昼の情報番組らしい。
笑い声。
拍手。
それが、
別の世界の音みたいだった。
山口はメモを見ながら、
ゆっくり口を開いた。
「西山さん」
「はい」
「先ほど、
手紙のお話がありましたが」
「はい」
「もう少し詳しく伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
幸子は頷いた。
ここからが本番だと思った。
ただ“帰りたい老人”ではないことを、
伝えなければならない。
感情ではなく、
順番に。
山口が聞く。
「いつ、
手紙を外に持ち出したのですか」
幸子は少し考えた。
「桜見学の日です」
「桜見学」
「はい。
一年に一度だけ、
外へ連れて行ってもらえるんです」
山口は頷く。
「その日のために、
前から準備していました」
「どのくらい前から?」
「……二か月くらいです」
佐藤のペンが止まる。
「二か月」
「はい」
「そんなに前から、
手紙を書こうと思っていたんですか」
「はい」
幸子は静かに答えた。
「電話が使えませんでしたから」
沈黙。
山口は続ける。
「手紙は、
どこに隠していたんですか」
幸子は、
少し視線を落とした。
「トイレです」
「トイレ?」
「タンクの中です」
佐藤が顔を上げる。
「タンクの中?」
「ビニール袋に入れて、
濡れないようにして」
「引き出しに置くと、
職員さんに見つかると思ったので」
山口が聞く。
「荷物の確認があるんですか?」
「時々ですけど」
「整理整頓という形で、
職員さんが触ることがあります」
「危険物確認もあります」
幸子は、
そこで少し苦笑した。
「私は、
犯罪者じゃないんですけどね」
山口は何も言わなかった。
佐藤が、
静かにメモを書いている。
「それでも、
見つかるのが怖かったです」
幸子は言った。
「毎日、
トイレへ行くたびに、
まだあるか確認していました」
「誰かに見つかったらどうしようって」
「ずっと考えていました」
山口が聞く。
「施設へ相談しようとは思いませんでしたか?」
幸子は首を横に振る。
「無理だと思いました」
「なぜですか?」
「帰りたいと言うと、
警戒されるからです」
「警戒?」
「はい」
「前に、
感情的になったことがありました」
「そのあと、
拘束されました」
部屋の空気が少し重くなる。
幸子は続ける。
「それから、
わかりました」
「抵抗すると、
自由が減るんです」
山口は、
静かに聞いている。
「だから私は、
従順なふりをしました」
佐藤が顔を上げた。
「ふり?」
「はい」
「怒らない」
「帰りたいと言わない」
「折り紙を折る」
「歌を歌う」
「職員さんにお礼を言う」
「問題を起こさない」
幸子は、
そこで小さく息を吐いた。
「そうすると、
監視が少し緩くなるんです」
佐藤は、
メモを書く手を止めたまま、
幸子を見ていた。
「その状態で、
手紙を書く準備をしていました」
「はい」
「誰かに助けを求めるしか、
方法がありませんでしたから」
山口が聞いた。
「親族には連絡を?」
幸子は、
少し間を置いた。
「子どもは来ません」
「面会は?」
「最近は、
ほとんどありません」
「電話は?」
「直接はできません」
「なぜ?」
「施設を通すからです」
幸子は、
そこで少しだけ困ったように笑った。
「私は、
七十二歳なんですけどね」
誰も笑わなかった。
「子どもが、
ここに私を入れました」
「だから、
出してくれないと思いました」
「恨んでいますか?」
山口の問いに、
幸子はすぐ答えなかった。
浩介の顔が浮かぶ。
病院。
疲れた顔。
由美の目の下の隈。
洗濯物。
通院。
夜の電話。
骨折した自分。
迷惑をかけた。
それは事実だった。
「……いいえ」
幸子は言った。
「息子は、
悪い人じゃありません」
山口が顔を上げる。
「お金が目的でもありません」
「私の通帳や年金を、
勝手に使おうとしているわけじゃないと思います」
「そういうところは、
信用できます」
佐藤が聞く。
「通帳は現在、
どなたが?」
「おそらく息子です」
「施設費用の支払いも?」
「そうだと思います」
「確認は?」
「していません」
「できませんでしたから」
山口が、
静かに尋ねた。
「それでも、
悪意はないと?」
「はい」
幸子は頷く。
「ただ……」
「私のことを、
本人抜きで決めてしまったんです」
沈黙。
その言葉は、
怒鳴り声より重かった。
山口は、
ゆっくり聞く。
「どうして、
この施設へ入ることになったのですか」
幸子は、
膝の上の手を見た。
「転んだんです」
「自宅で」
「大腿骨を骨折しました」
「入院しました」
「その間、
長男のお嫁さんが、
毎日のように来てくれました」
「洗濯とか、
買い物とか、
色々」
「ありがたいと思っていました」
幸子は、
少しだけ目を閉じた。
「でも、
たぶんそれが限界だったんだと思います」
「限界」
「はい」
「私一人を見るのが」
山口は何も言わない。
「退院の時に、
息子に言われました」
『少しだけ施設で様子を見よう』
『ショートステイだから』
『リハビリもできるし』
幸子は、
その時の声を思い出していた。
優しかった。
だから信じた。
「私は、
短期間だと思っていました」
「最初は納得していたんですね」
佐藤が確認する。
「はい」
「迷惑をかけていましたから」
「歩けるようになったら、
帰れると思っていました」
「でも、
帰る話が出なくなりました」
「それで?」
「帰りたいと言いました」
「すると?」
「まだ危ないです、
ご家族も心配されています、
と言われました」
「スマホを返してほしいと言いました」
「でも、
規則だから渡せません、
と言われました」
「無理に出ようとしたことは?」
「あります」
「玄関へ行きました」
「帰ろうとしました」
「その時は?」
「止められました」
「鍵をかけられていると感じました」
山口が聞く。
「そのあと、
器具を投げたんですね」
「はい」
「やるせなくて」
「その夜、
拘束されました」
「どのように?」
「ベッドです」
「包帯で、
手首と足を固定されました」
山口の眉が、
ほんの少しだけ動く。
「どなたが?」
「職員さんです」
「怒鳴られたりは?」
「ありません」
「むしろ優しかったです」
幸子は、
そこで小さく笑った。
「危ないですからね、
西山さんのためです、
って」
誰も笑わなかった。
幸子は、
自分の声が少し震えていることに気づいた。
泣いてはいけない。
まだだ。
まだ。
「私は、
ここが怖いんです」
山口が静かに顔を上げる。
「怖い?」
「はい」
「怒鳴られません」
「殴られません」
「ご飯も出ます」
「職員さんも優しいです」
「でも、
少しずつ、
自分で決められなくなるんです」
部屋が静かになる。
幸子は続けた。
「何を食べるか」
「どこへ行くか」
「誰に電話するか」
「何を買うか」
「全部、
自分では決められません」
「だから、
手紙を書きました」
山口は、
しばらく何も言わなかった。
佐藤も黙っていた。
廊下の向こうで、
誰かが笑っている。
明るい笑い声だった。
幸子は、
その声を聞きながら思った。
ここは、
普通の施設だ。
たぶん、
世間から見れば。
でも私は、
ここで消えていく。
そう思った。
山口が、
静かに言った。
「西山さん」
「はい」
「本日は、
お話しいただきありがとうございます」
幸子は頷いた。
その瞬間、
初めて少しだけ、
肩の力が抜けた。




