第13話 現状確認
第13話 現状確認
その日、
昼食が終わった頃だった。
幸子は部屋で窓の外を見ていた。
桜は、
もうかなり散っている。
道路脇に、
薄いピンク色の花びらが溜まっていた。
春が終わる。
また、
施設の中だけの時間が続く。
そう思っていた。
コンコン。
扉が鳴る。
「西山さん」
中村主任だった。
「少しいいですか?」
「はい」
中村の後ろには、
見慣れない二人が立っていた。
スーツ姿。
女性と男性。
幸子は、
一瞬で呼吸が止まりそうになった。
知らない人。
施設職員ではない。
「こちら、市役所の方です」
中村が言った。
「西山さんの現状確認で、
少しお話をしたいそうです」
現状確認。
幸子はその言葉を、
頭の中で繰り返した。
現状。
確認。
手紙だ。
たぶん、
あの手紙だ。
胸の奥で、
心臓が大きく鳴った。
来た。
届いた。
でも、
喜んではいけない。
ここで顔に出してはいけない。
中村が見ている。
職員が見ている。
もし、
ここで取り乱したら。
もし、
泣き出したら。
もし、
大声で助けを求めたら。
“やっぱり不安定だ”
と思われる。
それで終わる。
「こんにちは」
女性が頭を下げた。
「名古屋市高齢福祉課の山口といいます」
三十代後半から四十代くらい。
落ち着いた声だった。
隣の男性も頭を下げる。
「佐藤と申します」
「……西山です」
幸子は立ち上がり、
軽く頭を下げた。
脚が震えそうになる。
だが、
震えてはいけない。
ここで感情的になれば終わりだ。
怒鳴ってはいけない。
泣きすぎてもいけない。
帰りたいと連呼してもいけない。
施設を悪く言いすぎてもいけない。
冷静に。
論理的に。
順番に。
私は正常です。
でも、
そう強く言いすぎてもいけない。
私は正常ですと叫ぶ人ほど、
疑われる。
幸子は、
ゆっくり息を吸った。
「少し別室でお話よろしいですか?」
山口が言った。
「はい」
中村が穏やかに笑う。
「西山さん、
緊張しなくて大丈夫ですよ」
「はい」
幸子は頷いた。
緊張していないはずがない。
ここで失敗したら、
もう二度と外へ声は届かない。
面談室へ向かう。
白い廊下。
壁に貼られた折り紙の桜。
レクリエーション室からは、
テレビの音が聞こえていた。
いつもと同じ施設。
いつもと同じ午後。
ただ、
幸子の心臓だけが、
異常な速さで動いていた。
面談室は小さかった。
テーブル。
パイプ椅子。
白い壁。
紙コップのお茶。
窓はなかった。
中村主任は同席しなかった。
「では、
こちらでお話を伺いますね」
山口が言う。
扉が閉まる。
山口。
佐藤。
幸子。
三人だけになった。
幸子は椅子へ座る。
膝の上で、
両手を重ねた。
指先が冷たい。
山口は、
柔らかい声で言った。
「本日は、
西山さんの生活状況の確認で来ています」
「はい」
「緊張しなくて大丈夫ですよ」
「……はい」
山口はメモ帳を開く。
「まず、
基本的なことを確認させてください」
「はい」
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「西山幸子です」
「年齢は?」
「七十二歳です」
「生年月日は?」
「昭和二十八年、
千九百五十三年二月四日です」
「ご住所は?」
「名古屋市名東区社台三丁目〇〇、
メゾティント社台四〇二号室です」
佐藤がメモを取る。
ペンの音が、
妙に大きく聞こえた。
「今日は何月何日かわかりますか?」
「四月二十二日です」
「ここはどちらかわかりますか?」
「ひだまり苑です」
「どういう施設かわかりますか?」
「介護付き高齢者施設です」
山口は静かに頷いた。
佐藤が一瞬だけ顔を上げる。
幸子は、
その小さな反応を見逃さなかった。
試されている。
日付。
名前。
住所。
場所。
食事。
全部、
認知機能を見るためだ。
「お食事は取られていますか?」
「はい。
三食食べています」
「今朝、
何を食べたか覚えていますか?」
「ご飯、
みそ汁、
鮭の切り身、
おからの煮付け、
海苔、
野菜が少し、
牛乳のパックです」
「昨日の夜は?」
「ご飯、
コーンスープ、
ハンバーグ、
サラダです」
山口と佐藤が、
ほんの少し顔を見合わせた。
幸子はそれを見て、
少しだけ息を吐いた。
答えられた。
少なくとも、
ここまでは。
「ありがとうございます」
山口が言った。
少し間があいた。
部屋が静かになる。
幸子は、
喉が渇いていた。
紙コップのお茶には、
手を伸ばせなかった。
山口が、
少し声を落とした。
「西山さん」
「はい」
「私たちは、
ある通報を受けてここに参りました」
幸子は、
ゆっくり顔を上げた。
「……手紙ですか」
山口は驚かなかった。
「そうです」
幸子は、
目を閉じそうになった。
届いた。
ちゃんと届いた。
誰かが届けてくれた。
捨てられなかった。
笑われなかった。
施設へ渡されなかった。
涙が出そうになる。
でも、
泣いてはいけない。
まだ早い。
まだ、
何も終わっていない。
「施設へ連絡しないでほしい、
身内へ連絡しないでほしい、
という内容でした」
「はい」
「なぜ、
そう書いたのですか?」
幸子は、
慎重に息を吸った。
感情ではなく、
事実を言う。
「監視が厳しくなると思ったからです」
「監視?」
「自由が減ります」
「具体的には?」
幸子は、
言葉を選んだ。
順番に。
鍵。
電話。
スマホ。
拘束。
飛ばしてはいけない。
「最初は、
ショートステイだと聞いていました」
山口は頷く。
「リハビリをして、
歩けるようになったら帰ろうと、
息子に言われました」
「息子さんに」
「はい」
「でも、
滞在が長くなって」
「帰りたいと言いました」
「すると?」
「もう少し様子を見ましょう、
と言われました」
佐藤がメモを取る。
「その後、
私は一度、
玄関へ向かいました」
「外へ出ようとしたのですか?」
「はい」
幸子は頷く。
「帰るつもりでした」
「その時は?」
「自動ドアが開きませんでした」
山口の手が止まる。
「開かなかった?」
「はい。
職員さんがカードか何かを使わないと、
開かないようでした」
「職員さんには何と言われましたか」
「お一人では危ないです、
転倒すると大変です、
と言われました」
「それで?」
幸子は、
少しだけ視線を落とした。
「私は、
帰りますと言いました」
「はい」
「すると、
ここがお家ですよ、
と言われました」
部屋が静かになる。
山口は表情を変えない。
だが、
その言葉をメモした。
「私は、
違います、
私の家は名東区です、
と言いました」
「その後、
外へは?」
「出られませんでした」
「鍵をかけられた、
という認識ですか」
「はい」
幸子は静かに言う。
「少なくとも、
私の意思だけでは出られません」
佐藤が顔を上げた。
幸子は続ける。
「そのあと、
息子へ電話したいと言いました」
「電話はできましたか?」
「できませんでした」
「なぜですか?」
「規則だからと」
「施設の電話も?」
「借りようとしました」
「はい」
「でも、
どこへかけるのか、
家族への確認が必要だと言われました」
「ご家族への確認」
「はい」
「私は、
なぜ私の電話を息子に確認するのか、
と思いました」
山口は黙って聞いている。
「スマホは?」
「預けています」
「返却は?」
「断られました」
「理由は?」
「紛失防止、
トラブル防止、
安全管理上、
規則です、
と言われました」
「現金は?」
「ありません」
「カードは?」
「ありません」
「財布は?」
「ありません」
幸子は、
膝の上で手を握る。
「私は、
自分で外へ出られません」
「自分で電話もできません」
「自分で買い物もできません」
「息子へ直接話すこともできません」
部屋が静かになる。
幸子は、
そこで一度息を整えた。
ここからだ。
ここから先を間違えてはいけない。
山口が聞いた。
「以前、
危険行為があったと聞いています」
幸子は頷く。
「ありました」
「何がありましたか?」
「やるせなくなって、
器具を壁へ投げました」
「なぜ?」
「帰れなかったからです」
「電話もできず、
スマホも返してもらえず」
「外へ出ようとしても出られず」
「どうしていいかわからなくなりました」
幸子は、
そこで少し声を落とす。
「大声を出しました」
「職員さんに止められました」
「その夜、
ベッドに拘束されました」
佐藤が顔を上げた。
「拘束?」
「はい」
「どのように?」
「手足を包帯で固定されました」
「ベッドに?」
「はい」
「説明はありましたか?」
「転倒防止です」
「どのくらいの時間ですか?」
「夜から朝までです」
山口の表情は変わらない。
だが、
部屋の空気が重くなった。
廊下の向こうから、
童謡が聞こえてくる。
誰かが歌っている。
少し音程が外れている。
幸子は、
その歌を聞きながら思った。
今、
ここで失敗したら終わる。
また、
あの部屋へ戻る。
また、
白い天井を見る。
そして今度こそ、
外へ声は届かない。
山口が言った。
「西山さん」
「はい」
「私たちは、
西山さんのお話をできる限り守秘します」
「はい」
「ただ、
確認が必要なこともあります」
「わかっています」
「今日は、
現状の確認としてお話を伺っています」
「はい」
幸子は頷いた。
そして、
自分から言った。
「施設には、
すぐに言わないでください」
山口が顔を上げる。
「施設にも、
息子にも」
「今日話したことを、
そのまま伝えないでください」
「監視が厳しくなります」
「少ない自由が、
もっとなくなります」
佐藤が黙っている。
山口は、
しばらく幸子を見ていた。
「わかりました」
短い返事だった。
だが、
幸子にはそれで十分だった。
山口が、
静かに聞いた。
「西山さん」
「はい」
「今、
一番困っていることはなんですか」
幸子は答えなかった。
すぐには。
言葉が出なかった。
困っていること。
外へ出られないこと。
電話できないこと。
スマホがないこと。
財布がないこと。
拘束されたこと。
全部そうだった。
でも、
それだけではなかった。
もっと奥にあるもの。
もっと小さくて、
もっと普通のこと。
幸子は、
ゆっくり顔を上げる。
そして、
小さな声で言った。
「……自分で、
何も選べないことです」
山口は、
その言葉を黙って聞いていた。




