エピソード5-9
◇◇◇◇◇
ランジェリーショップを出たとき、美桜の身体はぐったりと疲れ切っていた。
なぜこれほどまでに疲弊しているのか、自分でも明確な理由がわからない。ただ、買い物をしていただけで、特に体を動かしたわけでもないのに――。
あの後も、店員のお姉さんは容赦なく営業トークを畳みかけ、多種多様なランジェリーを美桜と蓮の前に並べていった。しかも、そのトークの矛先はなぜか終始、蓮に向けられていた。
(……どうして、私じゃなくて蓮さんなの? 実際に身に着けるのは私なのに……)
疑問を抱きながらも、美桜の意見が反映されることはなかった。蓮の「いい」「ダメだ」の一言で、商品の選定は次々と進み、気づけば選ばれた下着は山のように積み重なっていた。
スタッフのお姉さんは満面の笑みを浮かべ、蓮は当然のようにカードを差し出し、荷物は後で取りに来るよう指示していた。
すべてが終わり、店を出たとき、美桜の足取りはふらついていた。
そんな彼女に、蓮はまったく動じることなく、さらなる一言を告げた。
「もう一軒行くぞ」
その響きは、酔ったサラリーマンが放つ定番の一言にすら聞こえる。
(……次はどこ? どんなお店なの? どんな試練が待っているの? ……さっきは胸まで触られた私、次は……どこを……)
「……もう、どこも触られたくない……」
ぽつりと漏れた美桜の本音に、蓮が怪訝そうな顔を向ける。
「どこも触られねぇよ」
「……触られないの?」
「あぁ」
「……じゃあ、どこに行くの?」
「スマホを買いに行く」
その一言に、美桜は全身の力が抜けるほどの安堵を覚え、胸を撫で下ろした。
(よかった……これ以上触られたら、ほんとうに気絶するところだった……)
絶望の淵から生還した気分のまま、蓮に肩を抱かれながら、美桜はなんとか歩を進めた。
ケイタイショップに入ると、そっと蓮から距離を取り、ひとまず椅子に腰を下ろした。
(蓮さんの用事が終わるまで、ここで休ませてもらおう……)
椅子に腰を下ろした瞬間、美桜は大きく息を吐いた。身体も心も、ぐったりと重たかった。
「どれがいい?」
ほっとする間もなく、すぐ隣から蓮の声が届く。
「……なにが?」
「スマホだ」
「誰の?」
蓮は深く溜め息をつく。
「お前のだよ」
「なんで?」
「お前、スマホ持ってねぇだろ?」
「ううん、持ってない」
美桜は素直に首を振った。
「……だからだよ。スマホがなかったら不便だろ?」
「いらない」
「なぜ?」
「使わないから」
「友達とかと連絡取れねぇと困るだろ?」
「友達なんて、いないから」
その一言に、蓮がわずかに眉をひそめた。
美桜がスマホを持たなかった理由は、単純だった。施設では希望すれば持てたけれど、必要だと感じたことがなかった。掛ける相手も、掛かってくる相手もいなかったからだ。不便とも思わなかった。
「それなら、俺専用にしろ」
「……蓮さん専用?」
「あぁ」
「それって、必要なの?」
「あぁ。俺が美桜と別行動する時に、必要だ」
「そっか……でも、私、スマホの使い方とか全然分からないよ?」
「頑張って覚えようとか思わねぇのか?」
蓮は呆れたように笑った。
「……面倒くさい……」
「そう言うと思った」
蓮は小さく吹き出した。どうやら美桜の反応は予想通りだったらしい。
「これは必要だから買うんだ。好きな機種を選べ」
「……じゃあ、蓮さんと同じのがいい」
美桜がそう呟くと、蓮は意外そうに眉を上げた。
「俺と一緒でいいのか?」
「……うん」
小さな頷きに、蓮はほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「ほら」
手渡されたスマホは、蓮のものと同じ機種で、色違いだった。
深い海のような藍色をした蓮のスマホに対して、美桜のは、桜の花びらのような柔らかなピンク。
これまでスマホなんて不要だと思っていたのに、手にした瞬間、不思議と胸が弾んだ。
(……ちゃんと使えるように、勉強してみようかな……)
そんな気持ちが心の奥から、ほんのりと芽吹いた。
「蓮さん、ありがとう」
美桜が素直にお礼を口にすると、蓮は軽く頷いて応じた。
「あぁ。アドレス帳に俺の番号が入ってる。別行動の時に、なにかあったらすぐ連絡してこい」
「うん」
美桜は微笑みながら、新しいスマホをそっとバッグにしまった。その小さな機械は、彼とつながる唯一の証。指先の動き一つ一つに、スマホへの期待と、ほんのりとした嬉しさが滲んでいた。




