エピソード1-2
「おい」
背後から低く冷たい声が響く。その瞬間、少女の腕を掴む力が緩んだ。隙を見て、少女は腕に絡んだ指を振り払った。
「……あ?」
男は邪魔をされた怒りをあらわにしながら背後を振り返る。少女も同じ方へ目を向け――固まった。
そこにいたのは、さっきまで人波の中にいた、彼だった。
ナンパ男の視線が少女から彼へと移る。
(……このままじゃ、彼に迷惑がかかる)
少女はそう判断し、慌てて立ち上がった。
男の腕に手を伸ばそうとした、その瞬間――、
「れ……蓮さん……お……お疲れ様ですっ……」
男が一歩、後退った。
さっきまで怒りを浮かべていたその顔には、いつの間にか恐れの色が滲んでいた。
状況を把握できない少女は、その場で呆然と二人を見つめていた。
「なにしてんだ? いやがってるだろうが」
低く威圧的な声が響いた。鋭く冷たい視線が男を射抜く。
「い……いや……あの……すみません‼」
「早く行け」
「……あっ……はい。失礼します!」
男は彼に向かって深々と頭を下げ、慌てたように走り出した。
人の波に紛れるように走り去っていく背中を、少女は唖然と見つめていた。だがすぐに、腕の痛みが彼女を現実に引き戻す。
掴まれていた手首には赤い指の跡が残り、そこに触れると微かに熱を持っているのがわかった。
「大丈夫か?」
彼――蓮が、少女の顔を覗き込んでいる。
「……はい」
少女は答えながら、痛む手首を庇うように押さえた。
蓮は彼女の手首を大きな手で包み込む。その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように慎重だった。
手首の様子を確認した蓮は、眉をひそめ、小さく舌打ちをする。
「腫れてるな」
周囲を見渡すと、蓮は静かに言った。
「ちょっとの間、ここに座って待ってろ」
少女は小さく頷き、その場に腰を下ろす。そして、歩き去る蓮の背中を見送った。
(……どこに行ったんだろう?)
少女の視線は、蓮が消えた方向を追ったまま、宙をさまよう。
(あの人は一体なんなんだろう? さっきの男が、なぜあんなに怯えてたのかもわからない)
疑問が次々に浮かぶが、どれも答えのないままだ。
(蓮さんって何者? ……まぁ、私には関係ないけど)
腕に残る微かな痛みに触れながら、少女は無意識にため息を吐いた。
(……っていうか『待ってろ』って言われたけど……戻ってくるのかな)
もし戻ってくるのなら、自分はどう振る舞えばいいのか。
(戻ってきたら、お礼を言うべきだよね)
そう思うと、胸の奥に緊張が広がっていく。
(……お礼って、なんて言えばいいんだろう? 最近、人とちゃんと話してないし)
人前で言葉を発することを想像すると、喉がこわばる気がした。
(なんか、緊張する……)
少女はまた小さく息を吐き、手首を気にしながら座り直した。
しばらくすると、蓮が缶ジュースを手に戻ってきた。
彼は少女の前にしゃがみ込み、その缶をそっと手首に当てる。冷たい感覚が疼く痛みを和らげ、じわじわと熱を奪っていった。
「……ありがとうございます」
少女は、缶を自分の指で支える。
緊張していたわりに、自然と声が出たことに少しだけ安堵する。
小さな声でお礼を言うと、蓮は優しい笑みを返してくれた。
それからも蓮は立ち去ろうとはせず、少女の隣に静かに座り続けていた。
俯きがちな少女の耳に、微かな音が届いてくる。




