エピソード4-3
(……もしかして、蓮さんも思ってる? ……『私なんか、生まれてこなければよかった』って……)
不安はやがて、恐怖に変わっていく。
そのとき、美桜の頭にそっと触れる温かな手があった。
それだけで、張りつめた心がすこし緩む。
「無理に話さなくていい。言いたいときに言えばいいから」
蓮の低く優しい声に、美桜は一度、大きく息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……夢を……見るの」
「夢?」
蓮が尋ねると、美桜は小さく頷き、瞳を閉じた。
◇◇◇◇◇
古びた狭い和室。
畳の上には使い古された布団と、壊れかけた家具がぽつりと置かれているだけ。生活感はなく、どこか荒れ果てていた。
その部屋の一角で、小さな女の子が蹲っている。
壁際に身を寄せ、自分の存在を消すかのように、小さな身体を縮めていた。
震える腕で自分の身体を抱きしめ、かすかに擦れる畳の音さえ、沈黙を破るように響く。
その静寂を破ったのは、甲高い怒声だった。
若い女性――母親と呼ばれるその人の声が、容赦なく彼女の耳を打つ。
(……もういや……怖い……誰か助けて……)
少女の目の前に立ちはだかる母親の視線は、鋭く、冷たい。
その眼差しにさらされるだけで、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような痛みに襲われる。
部屋全体が、自分を押し潰そうとしている――そんな錯覚に囚われる。
(……ごめんなさい……お母さん……)
幼い彼女のか細い声は、虚空に溶けていった。
次の瞬間、母親の手が彼女の頬を打った。
乾いた音が鳴り響き、視界が一瞬、白く明滅する。
倒れた身体を、母親は無理やり引き起こすように少女の髪を乱暴に掴んだ。
そのまま、容赦ない衝撃が腹を蹴り上げる。
(……苦しい……やめて……)
かすかな呻きが、少女の口から漏れる。
鼻や口からこぼれた赤い液体が、白い肌を伝い、畳にしみこんでいく。
やがて、身体には赤紫の痣が浮かび上がり、じわじわとその痛みが全身を這う。
泣き叫ぶことさえ許されず、ただ、静かに耐えるだけ――。
けれど、怒りはまだ止まらない。
母親は無言で煙草に火を点け、その青紫の煙がゆるやかに漂い始める。
火のついたその先端が、無表情のまま、少女の背中へと近づいていった。
(……嫌だ……やめて……!)
心の中で響く悲鳴。けれど、その声は誰の耳にも届かない。
火が肌に触れた瞬間、乾いた音が静寂を裂いた。
◇◇◇◇◇
美桜はゆっくりと瞳を開く。
視界に映るのは、硬い表情を浮かべた蓮の顔。
その目には怒りと、どこか深い悲しみが宿っていた。
視線を受け止めた美桜は、静かに蓮のTシャツに手をかけ、脱ぎ始める。
「美桜……?」
戸惑いの声が室内に響く。
下着姿のまま、美桜は蓮をまっすぐ見つめる。
その視線を確認し、ゆっくりと背を向けた。
彼女の背中には、無数の火傷の痕がくっきりと刻まれていた。
「……なんだよ、これ……」
掠れた蓮の声が、彼女の背後から漏れる。
「罰だよ」
「罰?」
「私が、生まれてきてしまった罪に対する、罰……」
その言葉に、蓮は息を呑んだ。
無数の痕跡が語る、言葉では言い表せない過去の記憶。
「私は、親に捨てられたって言ったでしょ?」
背を向けたまま、美桜は淡々と口を開く。
今、蓮の顔を見ることはできなかった。
「あぁ」
短い返事が、静かに響く。
「正確に言うと……保護されたの」
「保護?」
「うん。児童相談所に――」
その言葉に、蓮の身体がわずかに硬直したのが伝わった。
「……母親の虐待から守るため、だって」
その瞬間、美桜の脳裏にあの光景がよみがえる――。
児童相談所の職員に連れられて行くとき、母が言われていた言葉――。
「私には父親がいない。いないっていうか……誰だかわからないんだって。お母さんがそう言ってた」
美桜の声は次第に掠れ、微かに震えていた。




