エピソード4-2
「目薬」
「それって……誰の?」
「目が痛いのは誰だ?」
「……私、だけど」
「正解」
蓮の短い返答に、美桜は思わず身を引いた。だが、背後にはソファの肘掛けしかなく、逃げ道はなかった。
「……無理」
「なにが?」
「……目薬、怖い」
消え入りそうな声を聞いても、蓮の表情に遠慮や同情の気配はない。
美桜は突然立ち上がり、リビングの出口へ向かおうとした。だが次の瞬間、蓮の手が彼女の腕をとらえていた。
軽々と引き寄せられ、気づけば美桜は蓮の膝の上にすっぽりと収まっていた。
(……やばい、この状況、絶対に逃げられない!)
美桜は必死に蓮から顔を背け、両手でしっかりと目を覆う。
「お前、なにしてんだ?」
「だから無理だってば!」
声を荒げながらも、頑なに目を開けようとしない。
「大人しくしていれば、すぐに終わる」
「やだもん!」
蓮は大きく溜め息をついた。
「お前さ……俺に襲われそうになったときは抵抗しなかったのに、目薬ごときで大騒ぎって、おかしくね?」
その言葉に、美桜は一瞬固まったものの、すぐさま首を横に振って反論した。
「それとこれとは別問題!」
深々と息を吐いた蓮が、美桜の耳元で低く囁く。
「選べ。俺が無理やり目をこじ開けるか、自分で開けるか――どっちがいい?」
(……どっちも嫌に決まってるじゃん!)
心の中で毒づきながらも、美桜にはそれを口にする勇気はなかった。ただ小さく縮こまるばかりだった。
沈黙ののち、蓮が再び動いた気配がする。
美桜は指の隙間からそっと彼を覗き見た。
そこには、目薬を握った蓮の手が、目の前に迫っていた。
「……ひっ!」
小さな悲鳴を上げた次の瞬間、水滴が瞳めがけて落ちてくる。
予想外の事態に、人は本当に身動きひとつ取れなくなるのだと、美桜はそのとき初めて知った。
逃げることも、瞼を閉じることすらできず、ただ呆然とその雫を見つめていた。
そして、目薬は見事に両目へと命中した。
「……!」
声にならない叫びを上げる美桜。その姿を見て、蓮は肩を揺らしながら笑いを堪えていた。
「いつまで拗ねてんだよ?」
ソファの隅で体育座りをしている美桜に、蓮が声をかける。
「……」
むくれた顔で睨み返す美桜。その頬はほんのり赤く染まっていた。
「分かった。もう目薬はしねぇから」
蓮は静かに言って、手に持っていた目薬をテーブルの上に置く。
そして両手を開いて見せ、なにも持っていないことを示した。
「ほら、な?」
優しく語りかけるその声に、美桜はようやく「……うん」と小さく返事をする。
「もう機嫌を直せよ」
蓮の声には、どこか安心させるような響きがあった。
「……うん」
頷いた美桜に、蓮は隣のソファを軽く叩いて合図する。
「こっちに来い」
おそるおそる隣へ移動する美桜。
心のどこかに小さな不安を抱えながら、いま自分が何を伝えようとしているのかを探していた。
(……私は、ちゃんと話せるのかな。蓮さんは、私の気持ちを理解してくれるんだろうか……)
彼の心に、自分の想いが届くのか、それすらわからなかった。




