エピソード3-2
その手つきは驚くほど自然で、まるで日常の一部のようだった。
戸惑いながらも美桜はそのタオルを受け取り、俯いたまま、そっと握り締める。
車内には静かに音楽が流れ、蓮は窓をすこしだけ開けて、タバコに火を灯していた。
美桜の背中に置かれた蓮の手は、一定のリズムで優しく動き続ける。
(……私はもう泣かないと思ってた。あの時、一生分の涙を流したと思ってたのに……)
それなのに、涙は途切れることなく流れ続ける。
まるで、自分の意思に反抗するように。
その雫は、蓮に買ってもらったばかりのワンピースに染み込んでいく。
蓮の手から伝わる温もりは、胸の奥深くに静かに沁み込んでいった。
その温もりは、涙を止めるためのものではなく、むしろ、溜まった感情を解き放たせるためのものだった。
涙がようやく落ち着いたころ、美桜は小さく息を吐き、震える声で言葉を紡いだ。
「……蓮さん……あの……ごめんなさい……」
蓮は何も言わず、美桜をじっと見つめていた。
その瞳には、怒りも苛立ちもなく、ただ穏やかな光が宿っている。
(……やばい……)
美桜は焦りを感じた。
冷たい眼差しの蓮を想定していた。謝罪だけして、すぐ車を降りようと思っていた。
(もう、あの場所にはいられない。でも、この繁華街は広い。新しい居場所を、また探せばいい……)
心の中で自分にそう言い聞かせ、美桜は再び口を開いた。
「今日は、ありがとう。とても楽しかった……」
そう言いながら、美桜はそっとドアに手をかけた。
蓮が口を開く前に、この場を離れなければならない。――そう、美桜は強く思っていた。
そのときだった。
カチリ。
蓮の手元で、ジッポライターが静かに閉じられる音が響いた。それと同時にもう一つの音が微かな音を立てる。
金属音が、心の奥に火を点けるように、美桜の胸に刺さる。
その一瞬で、車内の空気が変わった気がした。
思わず動きを止めた美桜は、震える手をそっと膝に戻した。
背中を冷たい汗が伝う。さっきの音がなんだったのか――彼女には分かっていた。
(……でも、もしかしたら違うかもしれない……)
わずかな希望に縋るように、ドアに手をかけて力を込める。
だが――反応はなかった。
「……」
(……やっぱり……)
ドアには、しっかりとロックがかかっている。
微かな希望は、あっけなく打ち砕かれた。
肩を落とし、俯いたその背後から、蓮の低く静かな声が響く。
「……まだ、話は終わってねぇぞ」
美桜は大きく息を吐き、ゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、余裕の笑みを浮かべる蓮。
その顔には、逃げ場をすべて塞ぐような確信が漂っていた。
「俺をナメんなよ。お前の行動が読めねぇとでも思ってんのか?」
その一言に、美桜は抗うことを諦め、静かにシートへと身を沈めた。
――蓮が納得しない限り、自分はこの車から出られない。そう、悟ってしまった。
(……逃げる? ……無理だ)
視線を横にずらすと、窓がわずかに開いているのが見えた。
その瞬間、美桜の思考は現実から乖離する。
(もっと細ければ、この隙間から抜けられたのかな……)
そんな無意味な空想を、胸の奥で自嘲する。叶わないことなど、誰より自分が分かっている。
「……で、どうするんだ?」
外に目を向けたまま、蓮が問いかけた。
「……ここで降りる」
かすれるような声で答えた美桜。
だが次の瞬間、蓮の声が鋭く低く響いた。
「あ?」
その音に含まれた怒気に、美桜は反射的に視線を落とした。
沈黙が満ちる車内に、重たい溜め息だけが残された。
「お前は、あそこにいて怖くないのか?」
問いかけに美桜はすこしだけ顔を上げる。いつもの優しげな蓮の表情がそこにあった。その優しさに、美桜の中のわずかな期待が膨らむ。




