エピソード2-1
翌日、美桜は施設内に鳴り響く正午のベルの音で目を覚ました。
ベッドに入ったのは、朝の八時。
夜が怖い。眠るのが怖い。
その恐怖は、物心ついた頃からずっと彼女の中にあった。
ふらふらとベッドから起き上がり、床に腰を下ろした美桜は、テーブルの上に置かれた小箱に手を伸ばす。
寝不足で気分は最悪だったが、
(今日はあれを見なかっただけ、まだマシだ)
そう思わずにはいられなかった。
深く息を吸い込むと、頭が少しずつ動き始める。傍らのバッグ。その隙間から覗く缶ジュースが目に入り、昨日の彼の姿が胸によみがえった。
(……ちょっと待って。私、蓮さんと約束したよね?)
美桜は時計に目をやる。
針が指す時間を見て、背中に冷たい汗が流れた。
「……やばっ!」
焦った声を漏らすと、手にしていたものを慌てて揉み消し、部屋のシャワールームへ駆け込んだ。
◇◇◇◇◇
駅に着いたのは、約束の三分前だった。
ぎりぎりになった原因は、施設を出る直前に施設長に呼び止められたこと。昨夜の帰りの遅さについて、長々と説教をされたせいで、予定より大幅に遅れてしまった。
(……あれさえなければ、もっと余裕だったのに)
美桜はうんざりとしたため息を吐く。
改札を抜けると、昨日蓮と別れた場所に一台の白い車が停まっているのが目に入った。
フルスモークの窓。車に詳しくない美桜でも、それが高級車だとすぐに分かる。ボンネットに刻まれたエンブレムが陽の光を受けてきらめいていた。
そのボンネットにもたれかかり、何かをくゆらせている男――。
「……蓮さん?」
小さな声が、美桜の唇からこぼれる。
間違いない。蓮だった。
だが、それと分かっていても、美桜は足を動かせなかった。
理由は車のせいかもしれない。けれど、それだけではなかった。
蓮だと分かっていても近づけなかったのは、彼の放つ空気のせいだった。
昨日とはまるで違う姿。
空を見上げるその眼差しは鋭く冷たく、全身からは人を寄せつけないような威圧感が滲み出ていた。
駅前の雑踏の中で、蓮を中心にぽっかりと空白のような空間が広がっていた。誰もその空間には近づこうとしない。
その圧倒的な存在感に、美桜の足は地面に縛り付けられたように動かなかった。
――その時、蓮がふいに美桜に視線を向けた。
二人の視線が交わった瞬間、蓮の眼差しが変わる。
昨日と同じ、優しくて力強く、自信に満ちた瞳――。
見つめ返された瞬間、胸に張りついていた不安がふっと溶けた。
気づけば、美桜は走り出していた。
「よう」
「おはようございます」
「その挨拶、おかしくないか? もう昼過ぎだぞ」
蓮が呆れたように笑う。
「あっ! そっか……じゃあ、こんにちは」
「はいはい。なんか適当だな、お前は……」
「えっ? そうかな?」
「あぁ。でもまぁ、いいけどな」
蓮が当たり前のように助手席のドアを開ける。その自然な仕草に、美桜の胸が少しだけ高鳴った。
美桜は、それまで車のドアを開けてもらうという経験がなかった。
戸惑いがちに蓮の顔を見上げると、彼はにっこりと笑って、妙にかしこまった調子で言う。
「どうぞ。お乗りください」
その言葉に、美桜は思わず吹き出してしまい、緊張が一気にほどけた。
そのおかげで、抵抗なく車内に乗り込むことができた。
蓮がドアを閉めると、車内には高級感が漂っている。
(……私なんかが乗っていいのかな……)
そんな不安がよぎるものの、美桜は思わずキョロキョロと車内を見渡す。
その様子を横目で見ながら、蓮が運転席に乗り込んだ。




