第9話 迎え火
8月13日。午後7時。
商店街に、提灯が灯っていた。
お盆の入りの夜には、今でも盆市が立つ。40年前と同じように。通りの両側に夜店が並び、焼きとうもろこしの匂いと、子供たちの声と、どこかのスピーカーから流れる盆踊りの音楽が、蒸し暑い空気の中に混ざり合っていた。
美津子さんは、改札を出たところで待っていた。
紺色の、麻の着物を着ていた。手には風呂敷包みを提げていた。
「着物なんて、久しぶりに着たわ」
美津子さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「あの人、私の浴衣姿を見たがってたの。夏になったら盆踊りに行こうって。結局、行けなかったけど」
私たちは、並んで商店街を歩いた。
途中、一軒の夜店の前で、美津子さんが足を止めた。
風鈴屋だった。
軒先に、何十もの風鈴が吊るされていた。ガラスの、鉄の、陶器の。夜風が吹くたびに、ちりん、ちりりん、と重なり合って鳴った。
美津子さんは、しばらくそれを見上げていた。
それから、一つの風鈴を指さした。
薄いガラスに、青い朝顔の絵が描いてある、手吹きの江戸風鈴だった。
「これを、ください」
*
コーポ白萩の外階段を上がると、205号室の前で、久住さんが待っていた。
洗いざらしの開襟シャツを着て、髭をきれいに剃っていた。美津子さんを見ると、目をしばたたかせた。
「……みっちゃん」
「ご無沙汰しています、源さん」
美津子さんが頭を下げると、久住さんは、何か言おうとして、口を閉じた。そして、しわだらけの手で、美津子さんの肩をぽんぽんと叩いた。
「よう来た。よう、来たな」
それだけだった。
204号室の前の廊下に、素焼きの焙烙を置いた。美津子さんが風呂敷包みから苧殻を取り出して、焙烙の上で折った。
マッチを擦る。
苧殻に火が移り、細い煙が夜空に上っていった。迎え火だった。
「本当は、お墓で焚くものだけど」
美津子さんは、しゃがみ込んだまま、炎を見つめて言った。
「あの人が帰ってくるのは、ここだから」
「源さん、朝顔」
美津子さんが、205号室のベランダの鉢植えに気づいて言った。久住さんは、照れくさそうに頭を掻いた。
「毎年、盆にな。あいつが好きだったろう、朝顔」
「知ってたの?」
「風鈴の絵、朝顔だったからな。あいつが選ぶなら、そうだろうと思ってよ」
美津子さんは、しばらく朝顔を見つめていた。それから、深く頭を下げた。
「ずっと、あの人のそばにいてくださって、ありがとうございました」
久住さんは、何も答えずに、そっぽを向いた。耳の先が赤くなっていた。
*
午後10時。
私たちは、204号室の中にいた。
美津子さんは部屋に入ると、ゆっくりと中を見回した。6畳間の、柱にかかった昭和61年のカレンダー。洗面台の、青と赤の歯ブラシ。水切りかごの、「よ」と「み」の箸。
何も言わなかった。ただ、カレンダーの8月13日の赤い丸に、そっと指で触れた。
それから、窓の上の鴨居に、買ってきた風鈴を吊るした。40年前から打ってある、あの小さな釘に。
窓は開けてあった。夜風が入ってきて、風鈴が、ちりん、と鳴った。
美津子さんは、帯の間から、四つ折りの短冊を取り出した。
陽太さんが、あの夜、風鈴に結んでいた短冊。
「春川さん。読んでもらえるかしら」
差し出された短冊を、私は受け取った。
古い紙だった。端が茶色く変色していて、ところどころに、小さな染みがあった。
開くと、ボールペンの、少し右上がりの男の人の字が並んでいた。
『帰ってこなくていいって言われても、帰ります。
ただいまを言わせてください。 陽太』
私は、声に出して読むことができなかった。
美津子さんは、短冊を私の手から受け取ると、胸に押し当てて、目を閉じた。
久住さんは、窓の外を向いていた。肩が、小さく震えていた。
*
10時55分。
外で、ブレーキの音がした。
甲高い、長い、耳をつんざくような音だった。それから、何かがぶつかる鈍い音。ガラスの割れる、高い音。
私は窓に駆け寄った。
交差点は、静かだった。盆市帰りの人たちが、何事もなかったように信号を渡っていた。誰も、今の音に気づいていないようだった。
40年前の、音だった。
背後で、部屋の空気が変わった。
振り返ると、蛍光灯の白い光が、オレンジ色に変わっていた。天井から、裸電球がぶら下がっていた。壁には花柄の壁紙が浮かび上がり、窓のカーテンは白いレースになっていた。
6畳間の真ん中に、ちゃぶ台があった。
二人分の夕食。湯気の立つご飯と、味噌汁と、茄子の煮びたし。
そして私は、いつの間にか、ちゃぶ台の前の座布団に座っていた。
座った覚えはなかった。
立ち上がろうとした。身体が動かなかった。手が勝手に、「み」と彫られた箸に伸びていく。
「春川さん!」
美津子さんの声が、ひどく遠くに聞こえた。
久住さんと美津子さんが、部屋の隅に立っていた。けれど二人の姿は、すりガラス越しに見るみたいにぼやけていた。この部屋の、この時間の中で、ちゃぶ台の前に座っている私だけが、くっきりと存在していた。
この部屋は、私を、みっちゃんにしようとしている。
11時。
かちゃり。
*
ドアが開いた。
湿った涼しい風。雨上がりの匂いと、線香の甘い匂い。
そして、足音がした。
初めてだった。40日以上この部屋にいて、声は毎晩聞いたけれど、足音を聞いたのは初めてだった。
玄関で靴を脱ぐ音。台所の床を踏む、ぎしり、という音。
「――ただいま」
すりガラスの引き戸が、開いた。
そこに、男の人が立っていた。
白いワイシャツの袖をまくっていた。背が高くて、ひょろっとしていた。髪は少し長めで、額に汗で張りついていた。手には、小さな紙の箱を提げていた。
顔が、見えた。
優しそうな顔だった。目尻の下がった、少し眠たげな目。困ったように笑う口元。
24歳の、瀬尾陽太さんだった。
「みっちゃん」
陽太さんは、ちゃぶ台の前の私を見て、ほっとしたように笑った。
「よかった。いた。……遅くなって、ごめん」
違う、と言いたかった。
私はみっちゃんじゃない、と。
でも、口が動かなかった。唇が勝手に開いて、喉の奥から、あの言葉がせり上がってきた。
お。
か。
「陽ちゃん」
声がした。
私の声ではなかった。
部屋の隅から、美津子さんが、一歩、前に出ていた。
ぼやけていたはずの姿が、裸電球の光の中で、くっきりと形を取っていた。紺の麻の着物。短く切りそろえた白髪。銀縁の眼鏡。62歳の、三好美津子さん。
陽太さんが、振り返った。
その顔に、戸惑いが浮かんだ。知らない人を見る目だった。
「陽ちゃん。私よ」
美津子さんは、もう一歩、前に出た。
「おばあちゃんになっちゃったけど。私よ。美津子よ」
陽太さんは、美津子さんを見つめていた。
長いこと、見つめていた。
それから、その目が、ゆっくりと見開かれた。
「……みっちゃん?」
「うん」
「みっちゃん、なの?」
「うん。……ずいぶん、待たせちゃった」
美津子さんの頬を、涙が伝っていた。
「ごめんね、陽ちゃん。帰ってこなくていいなんて、嘘。ぜんぶ嘘。ずっと、帰ってきてほしかった。あの夜も、次の夜も、40年、ずっと」
陽太さんの手から、紙の箱が落ちた。
箱の中で、ガラスの割れる音がした。
でも、鴨居に吊るされた風鈴が、それに応えるように、ちりん、と鳴った。窓は開いていたけれど、風は吹いていなかった。
陽太さんは、窓の風鈴を見上げた。朝顔の絵の、江戸風鈴。
それから、美津子さんに向き直って、少しだけ泣きそうな顔で、笑った。
「――ただいま、みっちゃん」
美津子さんは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、笑い返した。
「おかえりなさい、陽ちゃん」
*
身体が、動くようになった。
私は、「み」の箸から手を離した。座布団の上で、息を吐いた。
部屋の空気が、ふっと軽くなっていた。
3回目の返事は、私ではなく、美津子さんが言った。40年間、この部屋が待っていた、本当の「おかえり」を。
陽太さんは、美津子さんの前に立っていた。手を伸ばしかけて、止めた。触れていいのか、迷っているみたいだった。
美津子さんのほうから、その手を取った。
しわだらけの手と、若い男の人の手が、重なった。
「冷たいね」
「うん。ごめん」
「謝ってばっかり」
「うん」
陽太さんは、困ったように笑った。
「一緒に、行く?」
美津子さんの肩が、びくりと震えた。
私は、座布団から腰を浮かせた。久住さんも、一歩前に出ていた。
美津子さんは、しばらく陽太さんの手を握ったまま、黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「行かない。まだ、行けない」
「……そっか」
「待ってる子たちがいるの。私、定年してからも、近所の子の勉強を見てるの。夏休みの宿題、まだ終わってない子が何人もいて」
「みっちゃんらしいな」
陽太さんは、笑った。今度は、心から安心したような笑顔だった。
それから、部屋の中を見回した。
私を見た。
「ありがとう。返事、してくれて」
私は、何も言えずに頷いた。
久住さんを見た。
「源さん」
「……おう」
「もう一局は、また今度」
久住さんの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
「今度今度って、おまえは……いつも、そればっかりだ」
陽太さんは、声を上げて笑った。
そして、美津子さんの手を、そっと離した。
すりガラスの引き戸のほうへ、一歩下がった。玄関のほうへ。
「じゃあ」
陽太さんは、あの朝と同じように、靴を履きながら言った。
「いってきます」
美津子さんは、泣きながら、笑って答えた。
あの朝、言えなかった言葉を。
「いってらっしゃい」
*
裸電球が、ふっと消えた。
次の瞬間、蛍光灯の白い光が、部屋を照らしていた。花柄の壁紙も、レースのカーテンも、ちゃぶ台も、二人分の夕食も、どこにもなかった。
柱のカレンダーも、消えていた。
洗面台には、私のピンクの歯ブラシが一本だけ。水切りかごには、100円ショップの黒い箸が一膳だけ。冷蔵庫を開けると、麦茶のポットはなくなっていた。
玄関のたたきには、紺色のスリッパも、もうなかった。
ただ、窓の鴨居に、朝顔の江戸風鈴だけが残っていた。
廊下の焙烙では、迎え火の苧殻が、燃え尽きて白い灰になっていた。
夜風が吹いて、風鈴が、ちりん、と鳴った。




