第8話 帰れない人
8月9日。土曜日。午後2時。
朝霧市は、鳴瀬駅から電車で30分ほどの、静かな住宅街の町だった。
年賀状の住所を頼りに、駅から20分歩いた。古い団地と、新しい建売住宅が入り混じった一角に、小さな平屋が建っていた。庭には百日紅が咲いていて、表札には「三好」と書いてあった。
呼び鈴を押す指が、震えた。
この1週間、私は久住さんの部屋で寝泊まりしていた。
久住さんが言い出したことだった。204にいたら、いつ3回目を言わされるか分からない。夜だけでも、うちにいろ。奥さんの布団がまだ押し入れにあるから、と。
毎晩、11時になると、薄い壁の向こうから声が聞こえた。
「――ただいま」
それから。
「みっちゃん? ……みっちゃん、いないの?」
日を追うごとに、その声は、少しずつ切羽詰まったものになっていった。
「どこ行ったの。ねえ。帰ったよ。ごめん。遅くなって、ごめん」
久住さんは、そのたびに布団の中で背中を向けて、じっと動かなかった。眠っていないことは、分かっていた。
*
ドアが開いた。
出てきたのは、銀縁の眼鏡をかけた、小柄な女の人だった。白髪を短く切りそろえていて、生成りのシャツに、紺のエプロンをつけていた。背筋がまっすぐ伸びていて、いかにも、長く子供たちの前に立ってきた人という感じがした。
「はい。どちらさま?」
「突然すみません。春川と申します。鳴瀬の、コーポ白萩から来ました」
女の人の顔から、表情が消えた。
「204号室に、住んでいます」
ドアノブを握る手に、ぎゅっと力がこもるのが見えた。
「……帰ってください」
「三好美津子さん、ですよね。旧姓、野々宮さん」
「帰ってください。お話しすることは、何もありません」
ドアが閉まりかけた。
私は、とっさに言った。
「陽太さんが、毎晩、みっちゃんって呼んでるんです」
ドアが、止まった。
隙間から、眼鏡の奥の目が、私を見ていた。見開かれて、濡れていた。
「毎晩11時に帰ってきて、ただいまって言って。みっちゃん、いないの、って。遅くなってごめんって」
長い沈黙があった。
百日紅の花びらが、風にこぼれて、玄関先の敷石に落ちた。
やがて、ドアがゆっくりと開いた。
「……お入りなさい」
*
通されたのは、庭に面した小さな居間だった。
きれいに片付いていた。本棚には、児童書と教育書がぎっしり並んでいた。仏壇には、穏やかな顔をした年配の男の人の写真。旦那さんだろう。
陽太さんの写真は、どこにもなかった。
美津子さんは、冷たい麦茶を出してくれた。ガラスのコップに、氷が2つ浮かんでいた。
私は、この1か月のことを話した。下駄箱の貼り紙。夜11時の声。1回目の返事。2本目の歯ブラシ、「よ」と「み」の箸、オレンジの花模様の麦茶ポット。昭和61年のカレンダー。私の声で答えた、2回目の返事。ちゃぶ台の、二人分の夕食。仁科佳代子さんのこと。
美津子さんは、途中で一度も口を挟まなかった。
膝の上で重ねた手が、話が進むにつれて、白くなるほど握りしめられていった。
「茄子の煮びたし」
私が話し終えると、美津子さんは、ぽつりと言った。
「あれは、久住さんの奥さんに教わったの。あの人の好物だったから」
それから、両手で顔を覆った。
*
「私のせいなんです」
しばらくして、美津子さんは、顔を覆ったまま言った。
「あの人が帰れないのは、私のせい。あの朝、私が言ったから。もう帰ってこなくていいって」
「本心じゃなかったんですよね」
「本心じゃなかった。ただ、寂しかったの。構ってほしかった。そう言えば、あの人が慌てて謝ってくれると思った。それだけだった」
美津子さんは顔を上げた。眼鏡の奥の目が、真っ赤だった。
「あの人は、ちゃんと帰ってこようとしてたのに。私が、帰ってこなくていいなんて言ったから、あの人は、ずっと、帰る場所を探してる」
「だったら」
私は身を乗り出した。
「来てもらえませんか。あの部屋に。陽太さんに、おかえりって言ってあげてください」
美津子さんは、首を横に振った。
「行けません」
「どうしてですか」
「怖いの」
小さな声だった。
「あの人に会うのが、怖いんじゃない。私が行ったら、あの人は、私を連れていこうとするかもしれない。それが怖いんじゃないの」
美津子さんは、仏壇の写真に目をやった。
「連れていかれてもいいって、思ってしまいそうな自分が、怖いの」
私は、言葉を失った。
「あの人が死んで、私は逃げたの。部屋からも、あの町からも。何年も経って、今の主人と出会って、結婚した。穏やかで、いい人だった。子供はできなかったけど、幸せだった。……あの人のことを、忘れようとしてた。忘れて、生きてきた」
美津子さんは、眼鏡を外して、指で目元を押さえた。
「そんな私が、今さら、どんな顔をして、おかえりなんて言えるんですか」
私は、答えられなかった。
美津子さんは、しばらく黙って、庭の百日紅を見ていた。
「源さんに年賀状を出さなくなったのもね」
ぽつりと、言った。
「主人が亡くなった年、喪中のはがきを出したの。それが最後。次の年から、出せなくなった。……主人を見送って、また一人になって。そうしたら、あの人のことを、急に思い出すようになったの。毎晩。夜の11時になると、玄関のほうを見てしまうの。ここは、あの部屋じゃないのに」
眼鏡を外したままの目が、赤く潤んでいた。
「源さんに手紙を書いたら、あの人のことを訊いてしまいそうで。まだ、あの部屋に何かいるの、って。訊いたら、きっと、行ってしまう。だから、書けなくなった」
「……行きたかったんですか」
「分からない。行きたかったのかもしれない。行くのが怖かったのかもしれない。両方ね、きっと」
美津子さんは、仏壇の旦那さんの写真に目をやった。
「主人は、全部知ってたの。結婚する前に、話したから。そうしたらね、あの人、なんて言ったと思う?」
私は首を振った。
「『その人の分まで、あなたにおかえりを言うよ』って」
美津子さんは、そこで少し笑った。
「本当に、毎日言ってくれた。17年、一日も欠かさずに。私が仕事から帰るたびに、台所から、おかえりって。……それなのに私は、その人を見送ったあと、また昔の人のことばかり考えてる。ひどい女でしょう」
*
私は、バッグから、手ぬぐいの包みを取り出した。
久住さんから預かってきたものだった。あの子に渡せるなら、渡してやってくれ、と。
座卓の上で、そっと広げた。
割れた江戸風鈴。朝顔の絵。赤い紐。四つ折りの短冊。
美津子さんは、それを見た瞬間、息を詰まらせた。
「あの夜、陽太さんが買った風鈴です。久住さんが、現場で拾って、40年、持ってたそうです」
美津子さんは、手を伸ばしかけて、止めた。
指先が、破片の少し手前で、宙に浮いたまま震えていた。
「……ごめんなさい。無理」
その手を、胸に引き寄せた。
「見られない。どうしても、見られない」
私は、それ以上、何も言えなかった。
*
帰り際、玄関で靴を履いていると、美津子さんが言った。
「春川さん。あなた、ご家族は」
「母が、隣町に」
「会ってる?」
私は、答えに詰まった。
「……会ってないです。東京から戻ってきたことも、ちゃんと話してなくて。母は、私が上京するとき、どうせすぐ帰ってくるって言ったんです。その通りになったのが、悔しくて」
どうして、初めて会った人にこんな話をしているのか、自分でも分からなかった。
「母は、いつも電話の最後に、無理しなくてもいいって言うんです。帰ってこなくてもいいって。だから、私も帰らなくて」
美津子さんは、じっと私を見ていた。
「春川さん」
「はい」
「それは、たぶん、帰ってきてほしいって意味よ」
静かな声だった。
「帰ってこなくていいって言う人は、たいてい、帰ってきてほしいの。素直に言えないだけ。……私が、そうだったから」
私は、玄関のたたきに立ったまま、動けなくなった。
「言えなかった言葉って、ずっと残るのよ。40年経っても」
美津子さんは、少しだけ笑った。泣き笑いのような顔だった。
「あなたは、まだ間に合うでしょう」
*
風鈴は、美津子さんの家に置いてきた。
持って帰ってください、とは、言われなかった。
帰りの電車の中で、私はスマホを取り出した。
母の番号を開いて、しばらく見つめていた。
指が、通話ボタンの上で止まった。
10分くらいそうしていて、結局、私はメッセージを打った。
『お盆、16日に帰ります。』
送信してから、窓の外を見た。夕焼けの田んぼが、どこまでも続いていた。
返事は、すぐにきた。
『わかった。』
それだけだった。でも、少しして、もう一通きた。
『ちらし寿司、作っておくね。』
私の好物だった。子供の頃、夏休みの特別な日にだけ、母が作ってくれた。
スマホを胸に押し当てて、私は目を閉じた。
*
その夜、久住さんの部屋で布団に入ったあと、スマホが震えた。
知らない番号だった。
出ると、少し間があってから、声がした。
『……三好です』
美津子さんだった。
『あの短冊、読みました』
私は、布団の上に起き上がった。
『13日の夜、そちらに伺います』
声は震えていたけれど、はっきりしていた。
『あの人に、おかえりを言いに』
壁の向こうで、11時の声がしていた。
みっちゃん、どこ行ったの、と。




