第7話 風鈴
8月3日。午後11時40分。
205号室は、私の部屋と同じ間取りのはずなのに、ずっと狭く見えた。
物が多かった。壁際に積み上げられた古い新聞の束。将棋盤。ラジオ。何十年も前のものらしい扇風機。6畳間の奥には小さな仏壇があって、白髪の女の人の写真が飾られていた。
「女房だ。7年前にな」
久住さんは、それだけ言って、台所でやかんを火にかけた。
私はちゃぶ台の前に座らされた。膝がまだ震えていた。さっき、隣の部屋で見たちゃぶ台と、よく似た形のちゃぶ台だった。
出されたのは、湯呑みに入った熱いほうじ茶だった。真夏の夜なのに、その熱さがありがたかった。両手で包むと、指先の震えが少しだけおさまった。
「その鍵は」
私は、久住さんがステテコのポケットにしまった鍵束のことを訊いた。
「大家に頼まれて、預かっとる。わしがここに一番長くおるからな。雨漏りだの、水道だの、何かあったときのために」
久住さんはちゃぶ台の向かいに腰を下ろし、自分の湯呑みを一口すすった。
「本当は、204の合鍵は使うなって言われとる。前に、勝手に開けて、えらい騒ぎになったことがあってな」
「……前、って」
「仁科さんのときだ」
私は湯呑みを握りしめた。
「あのときは、間に合わんかった」
*
久住さんは、ゆっくりと話し始めた。
昭和60年の春に、久住さんは奥さんと二人でこのアパートに越してきた。まだ建って10年も経っていない、きれいなアパートだった。
その翌年の春、隣の204号室に、若い二人が越してきた。
「陽太とな、みっちゃんだ」
瀬尾陽太。駅前の信用金庫に勤めていた。背が高くて、ひょろっとしていて、よく笑う男だった。
野々宮美津子。その春に短大を出て、小学校の先生になったばかりだった。
「結婚はまだだった。みっちゃんの親御さんが、先生になったばかりで早いって、うるさかったらしくてな。一緒に住むのも内緒で、みっちゃんは実家には友達とルームシェアしてるって言ってたそうだ」
久住さんは、少しだけ笑った。
「わしらは、二人の味方だった。陽太は休みの日になると、将棋盤を抱えてうちに来てな。弱いんだ、これが。何べんやっても、わしに勝てん。そのくせ、負けるたびに『もう一局』って言う」
久住さんの視線が、部屋の隅の将棋盤に向いた。
「みっちゃんは、うちの女房と仲がよかった。煮物の味付けを教わりに来たりしてな。茄子の煮びたし、あれは女房の味だ」
ちゃぶ台の上の、湯気の立つ茄子の煮びたし。
私は、何も言えなかった。
「二人が越してきた最初の晩のことを、よう覚えとる」
久住さんは、湯呑みを置いて、少しだけ遠い目をした。
「引っ越しの片付けが終わって、陽太が1回、酒を買いに外へ出たんだ。それで戻ってきて、玄関で、でっかい声で『ただいま!』って言いよった。隣のうちまで丸聞こえだ」
久住さんは、鼻で笑った。
「みっちゃんが、『まだ一日目なのに』って笑っとった。そしたら陽太がな、『一日目だから言うんだよ。今日からここが、俺たちの帰る家だから』って」
私は、湯呑みを握る手に力を込めた。
「それから二人で、決まりを作ったんだと。どんなに喧嘩しとっても、帰ったら必ず『ただいま』を言う。言われたほうは、必ず『おかえり』を返す。みっちゃんが、女房に嬉しそうに話しとった。子供みたいな決まりでしょう、って」
どんなに喧嘩していても。
帰ったら、必ず。
「……だから、陽太さんは、毎晩」
「ああ」
久住さんは、目を閉じた。
「あいつは、決まりを守っとるだけなんだ。40年、ずっとな。守っとらんのは、返事のほうだ。返す人が、おらんのだから」
*
「あの年の夏は、暑かった」
久住さんは、湯呑みの中を見つめながら言った。
「陽太の信用金庫が、何だか忙しい時期でな。毎晩遅くまで残業だった。帰ってくるのは、いつも11時近くだった。夜中に、隣から『ただいま』って聞こえて、『おかえり』って返す声がしてな。女房と二人で、ああ、今日も帰ってきたなって言い合ったもんだ」
毎晩、11時。
40年経っても、あの人は、その時刻に帰ってくる。
「みっちゃんは、寂しかったんだろう。先生になったばかりで、自分も大変だったはずだ。それなのに、陽太は毎晩遅くて、休みの日は疲れて寝とる。夏になったら二人でどこか行こうって約束も、延び延びになってな」
「……風鈴」
私が呟くと、久住さんは目を上げた。
「知っとるのか」
「夢で、見ました。窓際で、陽太さんが、風鈴を吊るしたらいいって。今度買うって。みっちゃんさんが、今度今度って、いつもそればっかりって」
久住さんは、長いこと黙っていた。
「……そうか。あいつ、あんたに、見せたのか」
*
8月13日の朝のことを、久住さんは覚えていた。
「喧嘩の声が聞こえた。珍しいことだった。二人とも、声を荒らげるような性分じゃなかったからな」
薄い壁越しに、途切れ途切れの言葉が聞こえたのだという。お盆くらい休めないの。無理だって言ってるだろ。いつもそう。今度、今度って。
「最後に、みっちゃんが言ったんだ」
久住さんの声が、低くなった。
「『もう、帰ってこなくていい』ってな」
私は息を呑んだ。
「そう言って、みっちゃんは荷物をまとめて、実家に帰った。お盆だったからな。陽太は、黙って仕事に行った」
その日の夜。
商店街では、毎年お盆の入りに盆市が立つ。夜店が並んで、提灯が灯って、遅くまで賑わう。
「陽太は、仕事帰りに、そこで風鈴を買ったんだ」
江戸風鈴。薄いガラスに、朝顔の絵が描いてある、手吹きの風鈴。
「たぶん、みっちゃんが実家から帰ってきたら、窓に吊るしといて、謝るつもりだったんだろう」
久住さんは、そこで言葉を切った。
「11時前に、表で、ものすごい音がした」
ブレーキの音。何かがぶつかる音。ガラスの割れる、高い音。
「わしは、サンダルつっかけて、飛び出した。交差点に、トラックが斜めに止まってて……」
久住さんは、それ以上言わなかった。
湯呑みを持つしわだらけの手が、小刻みに震えていた。
*
「みっちゃんは、次の日に帰ってきた」
知らせを受けて、実家から飛んで帰ってきた。部屋に入って、ちゃぶ台の前に座り込んで、そのまま動かなくなった。久住さんの奥さんが、一晩中そばについていたという。
「葬式が済んで、みっちゃんは、部屋を引き払った。荷物もほとんど置いたまま、逃げるみたいに出ていった。それきり、一度も、ここには来とらん」
「……今は」
「生きとる。三好って苗字になった。何年か経って、嫁に行ってな。隣の市に住んどる。年賀状が、15年くらい前まで来とった。旦那さんが亡くなったって書いてきた年を最後に、来なくなった」
久住さんは立ち上がり、仏壇の引き出しを開けた。
中から、古い年賀状の束と、手ぬぐいに包まれた、小さな何かを取り出した。
手ぬぐいを、そっとちゃぶ台の上で広げた。
割れたガラスの破片だった。
薄い、透き通るようなガラス。いくつかの破片には、青い朝顔の絵が残っていた。鉄の舌と、赤い紐。それから、紐の先に結ばれた、細長い紙の短冊。
「現場に、落ちとった。わしが拾って、それからずっと、ここにある」
「みっちゃんさんには」
「渡せんかった。渡そうとしたんだが、あの子は、見ることもできんかった」
短冊は、四つ折りに畳まれていた。
何か、書いてあるようだった。紙の裏側から、ボールペンの字が透けて見えた。
「中は」
「読んどらん」
久住さんは首を振った。
「わしが読んじゃいけねえ気がしてな。40年、一度も開けとらん」
*
私は、手ぬぐいの上の破片を見つめていた。
「陽太さんは、みっちゃんさんを探してるんですね」
「ああ」
「『もう帰ってこなくていい』って言われたまま、帰る途中で、死んじゃったから。ちゃんと帰って、ちゃんと、おかえりって言ってもらえてないから」
久住さんは、何も言わなかった。
「だから、毎晩帰ってくる。ただいまって言う。返事をしてくれる人を、待ってる」
そして、返事をしてしまった人は、みっちゃんの代わりに、あの部屋に座らされる。二人分の食卓の前に。帰ってくる人を、永遠に待つ人として。
「あいつは、悪い奴じゃねえんだ」
久住さんは、絞り出すように言った。
「人を取って食おうなんて、これっぽっちも思っとらん。ただ、帰りたいだけなんだ。40年、ずっと、帰りたいだけなんだよ」
私は、年賀状の束に目をやった。
一番上の一枚。整った、きれいな字。小学校の先生らしい字。
三好美津子。
住所は、隣の市の、私の知らない町名だった。
「久住さん」
「なんだ」
「この年賀状、貸してもらえませんか」
久住さんは、鋭くて眠たげな目で、私をじっと見た。
「会いに行くつもりか」
「はい」
「来んぞ、あの子は」
「分かりません。でも」
私は、ほうじ茶の残りを飲み干した。
「本当に陽太さんを待ってた人が、おかえりって言ってあげたら。陽太さんは、もう、探さなくてよくなるんじゃないですか」
8月13日まで、あと10日。
私に残された返事は、あと、1回だった。




