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ただいまを返してはいけない部屋 ~家賃2万8千円の事故物件で、毎晩11時の「ただいま」に3回返事をしたら終わり~  作者: 中原九尾


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6/10

第6話 2回目

 8月3日。午後10時。


 部屋は、少しずつ、私の部屋ではなくなっていた。


 7月の終わりに、ピンクの歯ブラシがなくなった。洗面台のコップには、青い歯ブラシと、見知らぬ赤い歯ブラシが並んでいた。柄の細い、古い形の、女物の歯ブラシ。


 8月の初めに、私の100円ショップの黒い箸がなくなった。水切りかごには、「よ」と彫られた木の箸と、「み」と彫られた、ひと回り小さな木の箸が並んでいた。


 夜になると、壁に花柄が浮かんで見えるようになった。


 はっきり見えるわけではない。蛍光灯の下で、ふと目の端に入ったときだけ、古い壁の染みが、小さな花の模様に見える。視線を向けると、ただの染みに戻る。窓のレースのカーテンも同じだった。私のカーテンは、無地のベージュのはずなのに、夜になると、ときどき白く透けて見えた。


 この部屋は、1986年に戻ろうとしている。


 そして私を、あの人を待っていた誰かに、作り変えようとしている。


 みっちゃん。


   *


 カレンダーを、外そうとしたことがある。


 8月1日の朝だった。柱の釘から昭和61年のカレンダーを外して、ゴミ袋に入れようとした。


 外れなかった。


 紙の上端の穴が、釘に引っかかっているだけのはずなのに、どれだけ引っ張ってもびくともしなかった。まるで、柱に直接糊で貼りつけてあるみたいに。


 私は、8月のページを掴んで、破った。


 びり、と乾いた音がして、ページが半分に裂けた。13日の赤い丸の、すぐ上のあたりで。


 破ったページを丸めて、ゴミ袋に入れた。袋の口を縛って、アパートのゴミ置き場に出した。


 その夜、会社から帰ると、カレンダーの8月のページは、元に戻っていた。


 破った跡はなかった。紙の端に、ほんの小さな皺が寄っているだけだった。


 13日の赤い丸も、『風鈴』の2文字も、そのままだった。


   *


 鏡を見るのが、怖くなった。


 8月2日の朝、洗面台の前で歯を磨いていて、ふと顔を上げた。


 鏡の中の私は、前髪を横に流して、ヘアピンで留めていた。


 私は、ヘアピンなんて使わない。前髪は、いつもまっすぐ下ろしている。


 思わず自分の額に手をやった。前髪は、いつも通り、まっすぐ下りていた。ヘアピンなんてどこにもない。


 もう一度、鏡を見た。


 鏡の中の私も、額に手をやっていた。前髪は下りていた。ヘアピンはなかった。


 見間違い。寝ぼけていただけ。


 でも、鏡の中の私は、口元に薄く紅を引いていたような気がした。私の持っていない、古い、朱色の口紅を。


   *


 部屋を出ようと、何度も考えた。


 不動産屋に電話をして、事情を話して、解約して。けれど、そのあとどこに住む? 敷金も礼金も、この部屋の契約で使い果たしてしまった。次の部屋を借りるお金は、まだ貯まっていない。


 実家に帰る。


 その選択肢が頭に浮かぶたびに、母の声が耳の奥で鳴った。


 ――どうせ、すぐ帰ってくることになるわよ。


 それに。


 正直に言えば、私はもう、あの声を置いて出ていくことが、できなくなりかけていた。


 40年間、毎晩帰ってきて、誰もいない部屋に「ただいま」と言い続けている人。みっちゃん、いないの、と探し続けている人。


 私が出ていったら、あの人はまた、一人で帰ってくるのだ。


   *


 その夜、私は作戦を立てた。


 11時の少し前に、風呂場に入る。ドアを閉めて、シャワーを出して、耳を塞ぐ。声は玄関からくる。風呂場は台所の奥にあって、玄関からいちばん遠い。水の音で、少しでもかき消せるかもしれない。


 返事さえしなければいい。


 それだけを守ればいい。


 10時55分。


 私は風呂場に入って、ドアを閉めた。タイルの壁に囲まれた、1畳ほどの狭い空間。服を着たまま浴槽の縁に腰かけ、シャワーのレバーを上げた。


 水が、タイルの床を叩く音。


 私は両手で耳を塞いで、目を閉じた。


 11時。


 水の音の向こうで、鍵の回る音がした。


 聞こえた。耳を塞いでいるのに、はっきりと。


「――ただいま」


 いつもの声だった。


 私は歯を食いしばった。黙っていろ。黙っていればいい。


 そのときだった。


「おかえりなさい」


 台所から、声がした。


 女の人の声だった。


 私の、声だった。


   *


 私は、浴槽の縁から滑り落ちそうになった。


 聞き間違えるはずがなかった。自分の声だ。録音して聞くと少し高く聞こえる、あの、私の声。


 でも、私は風呂場にいる。口を開いていない。両手で耳を塞いだまま、歯を食いしばっている。


 台所で、誰かが、私の声で答えたのだ。


「おかえりなさい。遅かったね」


 私の声が、続けて言った。


 甘えるような、でも少しだけ拗ねたような声。夢の中で聞いた、あの女の人の口調と、そっくり同じだった。


 シャワーの水が、急に冷たくなった。


 いや、違う。水は止まっていた。私はレバーに触れていないのに、いつの間にか、水の音が消えていた。


 風呂場は静まり返っていた。


 ドアのすりガラスの向こうが、オレンジ色に明るかった。


 蛍光灯の白い光じゃない。裸電球の、温かい色の光だった。


 私は、震える手でドアを押し開けた。


   *


 台所は、台所ではなかった。


 いや、同じ台所だった。狭い4畳半に、流しと、2口のコンロと、冷蔵庫。けれど、流しのステンレスは新品のように光っていて、コンロは見たことのない緑色の古い型だった。冷蔵庫は小さくて、扉に、色あせたシールがいくつも貼ってあった。


 天井から、裸電球がひとつ、ぶら下がっていた。


 6畳間との間のすりガラスは、開け放たれていた。


 6畳間には、ちゃぶ台が置かれていた。


 私の布団も、段ボールも、どこにもなかった。花柄の壁紙。白いレースのカーテン。窓の上の鴨居の釘。柱の、昭和61年のカレンダー。


 ちゃぶ台の上には、二人分の夕食が並んでいた。


 ご飯と、味噌汁と、茄子の煮びたしと、冷奴。湯気が立っていた。茶碗の横に、「よ」の箸と、「み」の箸。オレンジの花模様の麦茶ポットと、グラスが2つ。


 ちゃぶ台の片側に、座布団が一枚、敷いてあった。


 空いているほうの座布団が。


 私はその座布団から、目が離せなかった。


 座れ、と言われている気がした。


 ここに座って、箸を取って、帰ってきた人と、一緒にご飯を食べる。それだけでいい。それだけで、この部屋はあなたの帰る場所になる。あなたも、誰かのおかえりになれる。


 足が、一歩前に出た。


 私の意思じゃなかった。


 いや、本当にそうだろうか。私はどこかで、それを望んではいなかっただろうか。


 二歩目。


 ちゃぶ台の向かい側の座布団には、誰もいなかった。でも、そこに誰かが座っている気配がした。湿った涼しい空気。線香の甘い匂い。


 三歩目で、私は座布団の前に立っていた。


 膝が、折れかけた。


   *


 どん、どん、どん。


 玄関のドアが、外から激しく叩かれた。


「おい!」


 しゃがれた男の人の声だった。


「春川さん! 開けろ! おい!」


 久住さんだった。


 膝が止まった。私は座布団の上にかがみ込んだまま、玄関のほうを振り返った。


 どん、どん、どん。


「聞こえとるのか! 開けろ!」


 私は玄関に走った。ドアノブを掴んで、回した。


 回らなかった。


 鍵はかかっていなかった。チェーンもかかっていなかった。それなのに、ドアノブは、溶接されたみたいにびくともしなかった。


「開かないんです!」


 叫んだ。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


「開かない、久住さん、開かない!」


 ドアの向こうで、久住さんが一瞬、黙った。


 それから、今まで聞いたことのない大きな声で、怒鳴った。


「陽太!」


 私は息を呑んだ。


「陽太、おまえ! その子は、みっちゃんじゃねえ!」


 部屋の空気が、震えた。


「その子は、春川さんだ! みっちゃんじゃねえんだ! おまえだって、分かっとるだろうが!」


 裸電球が、ちかちかと瞬いた。


「頼むから、その子を帰してやれ……!」


 最後のほうは、声がかすれていた。


 しんとした。


 背中のほうで、何かがゆっくりと遠ざかっていく気配がした。湿った涼しい風が、玄関から、台所へ、6畳間へ、窓の外へ。


 ドアノブが、手の中で回った。


   *


 ドアを開けると、廊下に久住さんが立っていた。


 ランニングシャツにステテコ姿で、手に古い鍵束を握りしめていた。額に汗をかいて、肩で息をしていた。


 私の顔を見ると、久住さんは、長い息を吐いた。


「……無事か」


 私は頷こうとして、膝から崩れ落ちた。


 久住さんが、しわだらけの手で私の腕を掴んで支えてくれた。その手は、驚くほど温かかった。


 振り返ると、部屋の中は、私の部屋に戻っていた。


 蛍光灯の白い光。私の布団。段ボール。ちゃぶ台も、夕食も、どこにもなかった。


 ただ、柱の昭和61年のカレンダーだけが、そのまま残っていた。


 8月のページが、開いていた。


 13日の赤い丸まで、あと、10日。


「……いくつ目だ」


 久住さんが、低い声で訊いた。


 私は、震える唇で答えた。


「2回目、です」


 私は、何も言っていない。


 でも、この部屋は、あの「おかえりなさい」を、私の返事として数えたのだと分かっていた。


 久住さんは目を閉じて、しばらく黙っていた。


 それから、鍵束をステテコのポケットにしまって、言った。


「うちに来い。茶ぐらい出す」


 廊下の窓の外で、どこかの家の風鈴が、ちりんと鳴った。


「話してやる。陽太のことも、みっちゃんのことも。……全部な」

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