↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただいまを返してはいけない部屋 ~家賃2万8千円の事故物件で、毎晩11時の「ただいま」に3回返事をしたら終わり~  作者: 中原九尾


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/10

第10話 いってらっしゃい

 8月14日。午後11時。


 声は、こなかった。


 私は204号室の布団の上に座って、スマホの時計が11時を過ぎ、11時5分を過ぎ、11時半を過ぎるのを、じっと見ていた。


 鍵の回る音はしなかった。ドアが開く音も、湿った涼しい風も、線香の甘い匂いも。


 窓の鴨居で、朝顔の風鈴が、ときどき夜風に揺れて鳴るだけだった。


 ほっとした。


 ほっとしたはずなのに、胸の真ん中に、ぽっかりと穴が空いたような気がした。


 40日あまり、毎晩聞いていた声だった。怖くて、震えて、眠れなくて、それでもいつの間にか、あの声を待つようになっていた。


 ただいま、と言ってくれる人がいる夜。


 それが、もう来ない。


 私は布団に横になって、天井の木目を見上げた。最初の夜、人の顔に見えた木目は、今はただの木目にしか見えなかった。


 静かな部屋だった。


   *


 8月15日も、声はこなかった。


 昼間、久住さんの部屋で、将棋を教わった。


「駒の動かし方くらい、覚えとけ」


 久住さんはそう言って、将棋盤を挟んで私の向かいに座った。


 私は、びっくりするほど弱かった。何度やっても、あっという間に王将を取られた。


「陽太より弱いな」


「そうなんですか」


「あいつは、もうちょっと粘った」


 久住さんは、駒を並べ直しながら、少しだけ笑った。


「もう一局、やりますか」


 私がそう言うと、久住さんの手が止まった。


 それから、鼻をすすって、「おう」と言った。


   *


 8月16日。午前9時。


 私は、実家に帰る支度をしていた。


 小さなボストンバッグに、着替えと、会社の近くの和菓子屋で買った水ようかんの箱を入れた。母の好物だった。好物だったはずだ。子供の頃の記憶だから、今も好きかどうかは分からない。


 玄関で、スニーカーを履いた。


 下駄箱の扉を開けて、中の貼り紙を見た。


『夜11時に玄関から声がしても、返事はしないでください。』


 その下の、擦れた一行。


 スマホのライトを斜めに当てても、もう、何も浮かび上がらなかった。筆圧の溝さえ、なくなっていた。まるで最初から、一行しか書かれていなかったみたいに。


 私は、セロハンテープに爪をかけた。


 今度は、剥がせた。


 四隅のテープが、乾いた音を立てて外れた。便箋を裏返すと、そこに、小さな字が書いてあった。


 青いボールペンの、崩れた字。


『ごめんなさい。私は、待ってしまいました。

 次の人は、どうか、待たないで。 仁科』


 私は、しばらくその字を見つめていた。


 仁科佳代子さん。


 二人分の食卓の前で、座ったまま見つかった人。


 この人も、きっと寂しかったのだ。帰りを待つ人も、帰る場所もなくて。だから、あの声に、返事をしてしまった。3回目まで。


 私と、何も変わらない人だった。


 私は便箋を丁寧に四つに折って、バッグのポケットにしまった。今夜の送り火で、一緒に焚こうと思った。陽太さんと一緒に、この人も、どこかへ帰れるように。


 靴を履き終えて、ドアノブに手をかけた。


 振り返ると、部屋は、朝の光でいっぱいだった。6畳間の畳。窓の風鈴。私の布団。私の段ボール。


 私の部屋だった。


「……いってきます」


 誰に言うでもなく、言った。


 返事はないはずだった。


 でも、そのとき、窓の風鈴が、ちりん、と鳴った。


 風は、吹いていなかった。


   *


 実家は、隣町の、古い団地の3階にあった。


 階段を上がる足が、重かった。


 4階建ての団地には、エレベーターがない。子供の頃は、この階段を2段飛ばしで駆け上がっていた。今は、一段一段、踏みしめるようにしか上れなかった。


 302号室の前で、立ち止まった。


 表札の「春川」の字。ドアの横の、色の褪せた傘立て。何も変わっていなかった。


 インターホンを押そうとして、指が止まった。


 どうせ、すぐ帰ってくることになるわよ。


 その通りになった娘の顔を、母はどんな顔で見るのだろう。


 手が、震えていた。


 私は、インターホンを押さなかった。


 代わりに、合鍵を取り出した。上京するときも、捨てられずにキーケースの隅に入れたままにしていた鍵。


 鍵穴に差し込んで、回した。


 かちゃり。


 ドアを開けると、醤油と砂糖を煮詰める、甘い匂いがした。酢飯の匂いもした。


 台所の暖簾の向こうで、誰かが動く気配がした。


 私は、玄関で靴を脱ぎながら、奥に向かって言った。


 少しだけ声が震えた。


「――ただいま」


 暖簾が、揺れた。


 母が、顔を出した。


 エプロンをつけていた。髪に、白いものが増えていた。1年半前よりも、少しだけ小さくなったように見えた。


 母は、私を見て、何か言おうとして、口を閉じた。


 それから、いつもの、少しぶっきらぼうな声で言った。


「おかえり。手、洗いなさいよ」


 夢で見たのと、同じ言葉だった。


 私は、玄関のたたきに立ったまま、声を上げて泣いた。


 母は、何も訊かなかった。どうせ帰ってくると思ったとも、言わなかった。ただ、台所から出てきて、私の背中を、ぎこちなく何度もさすった。


「ちらし寿司、できてるわよ」


 泣きながら、私は頷いた。


   *


 ちらし寿司は、子供の頃と同じ味がした。


 錦糸卵と、甘く煮た椎茸と、絹さや。小さな食卓に向かい合って、私と母は、黙って箸を動かした。


 テレビでは、高校野球の中継が流れていた。どちらのチームを応援するでもなく、二人ともぼんやりと画面を眺めていた。


「会社、辞めたんでしょう」


 母が、画面を見たまま言った。


 私は箸を止めた。


「……知ってたの」


「知ってたわよ。春に、あんたの東京のアパートに送った荷物が、宛先不明で戻ってきたもの」


 母は、麦茶のグラスを口に運んだ。


「鳴瀬にいるのも、知ってた。佐伯さんとこの奈央ちゃん、お母さんがうちの団地の人と知り合いなのよ。印刷屋さんに、東京帰りの春川さんって子が入ったって」


 私は、何も言えなかった。


 知っていて、黙っていたのだ。帰ってこいとも、どうして言わないのとも言わずに、電話の最後に、無理しなくてもいいと付け足して。


「どうせすぐ帰ってくるって、言ったでしょう。私」


 母は、グラスを置いた。


「あれ、ずっと後悔してたの。あんたが出ていってから。あんな言い方しかできなくて」


 画面の中で、打球が高く上がった。歓声が、小さなスピーカーから溢れた。


「本当はね、いつでも帰ってきていいって、言いたかったのよ」


 母は、それだけ言って、また箸を動かし始めた。


 私は、うつむいたまま、ちらし寿司を口に運んだ。錦糸卵が、少ししょっぱく感じた。


 美津子さんの言った通りだった。


 帰ってこなくていいって言う人は、たいてい、帰ってきてほしいの。


 夕方、アパートに戻ると言うと、母は玄関まで見送りに出てきた。


「また、来るから」


「無理しなくても……」


 言いかけて、母は口をつぐんだ。それから、少し照れくさそうに、言い直した。


「……待ってるわ」


   *


 その夜、コーポ白萩の廊下で、送り火を焚いた。


 美津子さんと、久住さんと、私の3人で。


 素焼きの焙烙の上で、苧殻が燃えた。私は、仁科さんの便箋を、炎の中にそっと置いた。便箋は、端からゆっくりと黒くなって、灰になって、細い煙と一緒に夜空へ上っていった。


 美津子さんは、陽太さんの短冊を、焚かなかった。


「これは、持っていくわ」


 帯の間にしまいながら、美津子さんは言った。


「私がそっちへ行くとき、あの人に返してあげるの。ちゃんと、帰ってきたわねって」


 久住さんは、炎を見つめたまま、黙って頷いた。


 煙が、商店街の提灯の明かりのほうへ、ゆっくりと流れていった。


 どこか遠くで、風鈴が鳴っていた。


   *


 8月の終わり。


 私は、コーポ白萩を出なかった。


 不動産屋の牧野さんは、電話で更新の意思を伝えたとき、しばらく黙っていた。それから、『……そうですか。よかったです』と、心の底からほっとしたような声で言った。


 あの部屋は、もう、ただの古い部屋だった。


 夜11時に、声はこない。スリッパも、歯ブラシも、箸も、増えない。窓の鴨居に、朝顔の風鈴がひとつ吊るされているだけの、家賃2万8千円の、私の部屋。


 朝。


 私は玄関でパンプスを履いて、ドアを開けた。


「いってきます」


 誰もいない部屋に向かって言うのが、いつの間にか癖になっていた。


 廊下に出ると、隣のベランダから、ジョウロの水の音がした。


 手すり越しに、白いランニングシャツの久住さんが顔を出した。朝顔の鉢が、今朝も青紫の花をいくつも咲かせていた。


「おう。仕事か」


「はい」


 久住さんは、ぶっきらぼうに、でも少しだけ照れくさそうに、言った。


「いってらっしゃい」


 私は、笑って頷いた。


 外階段を下りる。錆びた鉄の段が、かん、かん、と鳴る。交差点の信号が、青に変わる。


 今夜、帰ってきたら、隣の部屋のドアをノックしよう。将棋の続きをしよう。


 それから、ちゃんと言おう。


 ただいま、と。


 背後で、204号室の窓の風鈴が、ちりん、と鳴った。


 私は振り返らずに、横断歩道を渡った。


(了)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


「ただいま」と「おかえり」は、二人いて初めて完成する言葉です。

帰る場所を失った人と、帰る場所から逃げてきた人。そんな二人が、あの部屋で出会う話を書きたいと思いました。


怖いだけでは終わらない、少しだけ温かいホラーになっていたら嬉しいです。


もし楽しんでいただけたら、ページ下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、とても励みになります。

感想も、ひと言でも大歓迎です。


そして、次回作のお知らせです。


『水神の花嫁は、雨を降らせない』

この村では、雨が止むと花嫁がいなくなる――。

日照りの山村を舞台にした、因習とひと夏の恋の和風ホラーです。


本日より連載を開始しました。

よろしければ、こちらも覗いてみてください。

https://ncode.syosetu.com/n5564mu/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。