第10話 いってらっしゃい
8月14日。午後11時。
声は、こなかった。
私は204号室の布団の上に座って、スマホの時計が11時を過ぎ、11時5分を過ぎ、11時半を過ぎるのを、じっと見ていた。
鍵の回る音はしなかった。ドアが開く音も、湿った涼しい風も、線香の甘い匂いも。
窓の鴨居で、朝顔の風鈴が、ときどき夜風に揺れて鳴るだけだった。
ほっとした。
ほっとしたはずなのに、胸の真ん中に、ぽっかりと穴が空いたような気がした。
40日あまり、毎晩聞いていた声だった。怖くて、震えて、眠れなくて、それでもいつの間にか、あの声を待つようになっていた。
ただいま、と言ってくれる人がいる夜。
それが、もう来ない。
私は布団に横になって、天井の木目を見上げた。最初の夜、人の顔に見えた木目は、今はただの木目にしか見えなかった。
静かな部屋だった。
*
8月15日も、声はこなかった。
昼間、久住さんの部屋で、将棋を教わった。
「駒の動かし方くらい、覚えとけ」
久住さんはそう言って、将棋盤を挟んで私の向かいに座った。
私は、びっくりするほど弱かった。何度やっても、あっという間に王将を取られた。
「陽太より弱いな」
「そうなんですか」
「あいつは、もうちょっと粘った」
久住さんは、駒を並べ直しながら、少しだけ笑った。
「もう一局、やりますか」
私がそう言うと、久住さんの手が止まった。
それから、鼻をすすって、「おう」と言った。
*
8月16日。午前9時。
私は、実家に帰る支度をしていた。
小さなボストンバッグに、着替えと、会社の近くの和菓子屋で買った水ようかんの箱を入れた。母の好物だった。好物だったはずだ。子供の頃の記憶だから、今も好きかどうかは分からない。
玄関で、スニーカーを履いた。
下駄箱の扉を開けて、中の貼り紙を見た。
『夜11時に玄関から声がしても、返事はしないでください。』
その下の、擦れた一行。
スマホのライトを斜めに当てても、もう、何も浮かび上がらなかった。筆圧の溝さえ、なくなっていた。まるで最初から、一行しか書かれていなかったみたいに。
私は、セロハンテープに爪をかけた。
今度は、剥がせた。
四隅のテープが、乾いた音を立てて外れた。便箋を裏返すと、そこに、小さな字が書いてあった。
青いボールペンの、崩れた字。
『ごめんなさい。私は、待ってしまいました。
次の人は、どうか、待たないで。 仁科』
私は、しばらくその字を見つめていた。
仁科佳代子さん。
二人分の食卓の前で、座ったまま見つかった人。
この人も、きっと寂しかったのだ。帰りを待つ人も、帰る場所もなくて。だから、あの声に、返事をしてしまった。3回目まで。
私と、何も変わらない人だった。
私は便箋を丁寧に四つに折って、バッグのポケットにしまった。今夜の送り火で、一緒に焚こうと思った。陽太さんと一緒に、この人も、どこかへ帰れるように。
靴を履き終えて、ドアノブに手をかけた。
振り返ると、部屋は、朝の光でいっぱいだった。6畳間の畳。窓の風鈴。私の布団。私の段ボール。
私の部屋だった。
「……いってきます」
誰に言うでもなく、言った。
返事はないはずだった。
でも、そのとき、窓の風鈴が、ちりん、と鳴った。
風は、吹いていなかった。
*
実家は、隣町の、古い団地の3階にあった。
階段を上がる足が、重かった。
4階建ての団地には、エレベーターがない。子供の頃は、この階段を2段飛ばしで駆け上がっていた。今は、一段一段、踏みしめるようにしか上れなかった。
302号室の前で、立ち止まった。
表札の「春川」の字。ドアの横の、色の褪せた傘立て。何も変わっていなかった。
インターホンを押そうとして、指が止まった。
どうせ、すぐ帰ってくることになるわよ。
その通りになった娘の顔を、母はどんな顔で見るのだろう。
手が、震えていた。
私は、インターホンを押さなかった。
代わりに、合鍵を取り出した。上京するときも、捨てられずにキーケースの隅に入れたままにしていた鍵。
鍵穴に差し込んで、回した。
かちゃり。
ドアを開けると、醤油と砂糖を煮詰める、甘い匂いがした。酢飯の匂いもした。
台所の暖簾の向こうで、誰かが動く気配がした。
私は、玄関で靴を脱ぎながら、奥に向かって言った。
少しだけ声が震えた。
「――ただいま」
暖簾が、揺れた。
母が、顔を出した。
エプロンをつけていた。髪に、白いものが増えていた。1年半前よりも、少しだけ小さくなったように見えた。
母は、私を見て、何か言おうとして、口を閉じた。
それから、いつもの、少しぶっきらぼうな声で言った。
「おかえり。手、洗いなさいよ」
夢で見たのと、同じ言葉だった。
私は、玄関のたたきに立ったまま、声を上げて泣いた。
母は、何も訊かなかった。どうせ帰ってくると思ったとも、言わなかった。ただ、台所から出てきて、私の背中を、ぎこちなく何度もさすった。
「ちらし寿司、できてるわよ」
泣きながら、私は頷いた。
*
ちらし寿司は、子供の頃と同じ味がした。
錦糸卵と、甘く煮た椎茸と、絹さや。小さな食卓に向かい合って、私と母は、黙って箸を動かした。
テレビでは、高校野球の中継が流れていた。どちらのチームを応援するでもなく、二人ともぼんやりと画面を眺めていた。
「会社、辞めたんでしょう」
母が、画面を見たまま言った。
私は箸を止めた。
「……知ってたの」
「知ってたわよ。春に、あんたの東京のアパートに送った荷物が、宛先不明で戻ってきたもの」
母は、麦茶のグラスを口に運んだ。
「鳴瀬にいるのも、知ってた。佐伯さんとこの奈央ちゃん、お母さんがうちの団地の人と知り合いなのよ。印刷屋さんに、東京帰りの春川さんって子が入ったって」
私は、何も言えなかった。
知っていて、黙っていたのだ。帰ってこいとも、どうして言わないのとも言わずに、電話の最後に、無理しなくてもいいと付け足して。
「どうせすぐ帰ってくるって、言ったでしょう。私」
母は、グラスを置いた。
「あれ、ずっと後悔してたの。あんたが出ていってから。あんな言い方しかできなくて」
画面の中で、打球が高く上がった。歓声が、小さなスピーカーから溢れた。
「本当はね、いつでも帰ってきていいって、言いたかったのよ」
母は、それだけ言って、また箸を動かし始めた。
私は、うつむいたまま、ちらし寿司を口に運んだ。錦糸卵が、少ししょっぱく感じた。
美津子さんの言った通りだった。
帰ってこなくていいって言う人は、たいてい、帰ってきてほしいの。
夕方、アパートに戻ると言うと、母は玄関まで見送りに出てきた。
「また、来るから」
「無理しなくても……」
言いかけて、母は口をつぐんだ。それから、少し照れくさそうに、言い直した。
「……待ってるわ」
*
その夜、コーポ白萩の廊下で、送り火を焚いた。
美津子さんと、久住さんと、私の3人で。
素焼きの焙烙の上で、苧殻が燃えた。私は、仁科さんの便箋を、炎の中にそっと置いた。便箋は、端からゆっくりと黒くなって、灰になって、細い煙と一緒に夜空へ上っていった。
美津子さんは、陽太さんの短冊を、焚かなかった。
「これは、持っていくわ」
帯の間にしまいながら、美津子さんは言った。
「私がそっちへ行くとき、あの人に返してあげるの。ちゃんと、帰ってきたわねって」
久住さんは、炎を見つめたまま、黙って頷いた。
煙が、商店街の提灯の明かりのほうへ、ゆっくりと流れていった。
どこか遠くで、風鈴が鳴っていた。
*
8月の終わり。
私は、コーポ白萩を出なかった。
不動産屋の牧野さんは、電話で更新の意思を伝えたとき、しばらく黙っていた。それから、『……そうですか。よかったです』と、心の底からほっとしたような声で言った。
あの部屋は、もう、ただの古い部屋だった。
夜11時に、声はこない。スリッパも、歯ブラシも、箸も、増えない。窓の鴨居に、朝顔の風鈴がひとつ吊るされているだけの、家賃2万8千円の、私の部屋。
朝。
私は玄関でパンプスを履いて、ドアを開けた。
「いってきます」
誰もいない部屋に向かって言うのが、いつの間にか癖になっていた。
廊下に出ると、隣のベランダから、ジョウロの水の音がした。
手すり越しに、白いランニングシャツの久住さんが顔を出した。朝顔の鉢が、今朝も青紫の花をいくつも咲かせていた。
「おう。仕事か」
「はい」
久住さんは、ぶっきらぼうに、でも少しだけ照れくさそうに、言った。
「いってらっしゃい」
私は、笑って頷いた。
外階段を下りる。錆びた鉄の段が、かん、かん、と鳴る。交差点の信号が、青に変わる。
今夜、帰ってきたら、隣の部屋のドアをノックしよう。将棋の続きをしよう。
それから、ちゃんと言おう。
ただいま、と。
背後で、204号室の窓の風鈴が、ちりん、と鳴った。
私は振り返らずに、横断歩道を渡った。
(了)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
「ただいま」と「おかえり」は、二人いて初めて完成する言葉です。
帰る場所を失った人と、帰る場所から逃げてきた人。そんな二人が、あの部屋で出会う話を書きたいと思いました。
怖いだけでは終わらない、少しだけ温かいホラーになっていたら嬉しいです。
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感想も、ひと言でも大歓迎です。
そして、次回作のお知らせです。
『水神の花嫁は、雨を降らせない』
この村では、雨が止むと花嫁がいなくなる――。
日照りの山村を舞台にした、因習とひと夏の恋の和風ホラーです。
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