第4話 やさしい声
7月22日。午後10時48分。
私は、商店街を走っていた。
パンプスのかかとがアスファルトを叩く音が、シャッターの閉まった通りに響いた。息が切れていた。脇腹が痛かった。それでも足を止めなかった。
あと12分。
コーポ白萩の外階段を駆け上がり、鍵を開けて、部屋に飛び込んだ。ドアを閉め、鍵をかけ、チェーンをかける。スマホを見た。10時54分。
間に合った。
そう思ってから、私は玄関にへたり込んだ。
間に合った、って、何にだろう。
*
この1週間、私はずっとおかしかった。
残業が長引きそうになると、そわそわした。10時を過ぎると、パソコンの右下の時計ばかり見ていた。10時半には、何を放り出してでも会社を出た。
11時までに、部屋に帰っていなければならなかった。
なぜなのか、自分でもうまく説明できなかった。
最初は、怖いからだと思っていた。外にいる間に11時がきて、誰もいない部屋にあの声が帰ってきたら。そう考えると、ぞっとした。
でも、本当は違った。
私は、あの声を聞き逃したくなかったのだ。
*
麦茶を、飲んでしまった。
7月の20日を過ぎた頃の、ひどく蒸し暑い夜だった。エアコンは古くて、設定温度を何度下げても、生ぬるい風しか出てこなかった。ペットボトルのお茶は切らしていた。コンビニまで行く気力もなかった。
冷蔵庫を開けると、オレンジの花模様のポットが、いつものように手前に置いてあった。
8分目まで満たされた、よく冷えた麦茶。
気がつくと、私はそれをグラスに注いでいた。
一口飲んだ。
香ばしくて、少しだけ苦くて、懐かしい味がした。子供の頃、夏休みに、母が大きなやかんで煮出して冷ましていた麦茶と、同じ味だった。
グラスを空にしたあとで、急に怖くなった。
飲んではいけないものだったのかもしれない。黄泉の国の食べ物を口にしたら、もう帰れなくなる。そんな昔話を、どこかで読んだ気がした。
でも、何も起こらなかった。
翌朝、ポットの麦茶は、また8分目まで戻っていた。
それから私は、毎晩、麦茶を飲むようになった。
ある夜、ふと気づくと、水切りかごから「よ」と彫られた木の箸を取り出して、コンビニの弁当を食べていた。自分の黒い箸ではなく。なぜそちらを手に取ったのか、分からなかった。
慌てて箸を戻した。手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。
この部屋に、少しずつ、馴染まされている。
そう思った。そう思ったのに、その晩もまた、私はオレンジの花模様のポットから、麦茶を注いだ。
*
「春川さん、痩せた?」
昼休みの休憩室で、佐伯さんが眉をひそめた。
「そうですか」
「そうだよ。顔色も悪いし。ちゃんと寝てる?」
「寝てますよ」
嘘だった。11時までは声を待って起きていて、11時を過ぎると、今度は何か変わっていないかと部屋を見回して、眠れなくなる。
「白萩、エアコンある?」
「一応」
「古いから効かないんでしょ。熱中症とか気をつけなよ。あの辺、夜になっても暑いから」
佐伯さんは心配そうに言った。私は、その心配をありがたく思いながら、同時に、少し遠く感じていた。
この人の世界には、夜11時の声はない。
スマホが震えた。画面に、「母」と表示されていた。
私は画面を伏せた。
「出ないの?」
「あとでかけ直します」
かけ直さないことは、分かっていた。
*
その日は、課長に呼ばれなかった。誤植もしなかった。何も失敗しなかった。
それなのに、ひどく疲れていた。
帰り際、コピー機の前で営業の男性社員たちが話しているのが聞こえた。お盆の帰省の話だった。誰それの実家は遠いとか、嫁の実家と自分の実家をどう回るとか。
「春川さんは? お盆、実家?」
一人に訊かれて、私は曖昧に笑った。
「近いので。たぶん、日帰りで」
そう答えながら、帰らないだろうな、と思っていた。
会社を出て、スマホを見た。母からの着信が一件。留守番電話が一件。
再生ボタンを押した。
『……千尋? お母さんだけど。お盆、どうするの。帰ってくるなら、何か作っておくけど。……まあ、忙しいならいいわよ。別に、無理しなくても』
それだけだった。
無理しなくても。
母はいつも、最後にそう付け足す。帰ってこなくてもいい、という逃げ道を、先に用意しておく。私が帰らなくても、自分が傷つかないように。
私も同じだった。帰らないで済む理由を、いつも先に探している。
私たちは、似ているのだと思う。
スマホをバッグにしまって、私は走り出した。10時48分だった。
*
11時。
玄関のたたきにへたり込んだまま、私はそれを聞いた。
かちゃり。
背中を預けているドアの、すぐ向こうで鍵が回る音がした。
ドアは開かなかった。私が寄りかかっているのに、開くはずがなかった。
でも、背中に感じた。ドアをすり抜けて、湿った涼しい風が、私の身体を通り過ぎていくのを。雨上がりの匂いと、線香の甘い匂い。
「――ただいま」
すぐ、耳元だった。
玄関に座り込んでいる私の、すぐ横。誰かが靴を脱ぐために、そこにしゃがみ込んだくらいの距離。
疲れた声だった。少し照れくさそうで、でも、帰ってこられてよかったと、心の底から思っている声。
私は、泣いていた。
いつから泣いていたのか、分からなかった。声を聞いた瞬間だったのか、それとも走っている間からだったのか。
ただ、涙が止まらなかった。
この人は、帰ってきたのだ。
どんなに疲れていても、どんなに遅くなっても、ちゃんと帰ってきて、ただいまと言う。この部屋が、自分の帰る場所だと知っているから。
私には、それがなかった。
東京のワンルームにも、この部屋にも、実家にも。ただいまと言って、おかえりと返してもらえる場所が、どこにもなかった。
返事をしてはいけない。
分かっていた。だから、返事はしなかった。
その代わりに、私は膝を抱えたまま、小さな声で言った。
「……お疲れさまです」
おかえり、ではなかった。はい、でもなかった。
それが返事に数えられるのかどうか、分からなかった。言ってから、全身が冷たくなった。
でも、何も起こらなかった。
湿った風が、ふわりと私の髪を揺らした。頭を撫でられたような気がした。
それから、風は台所を抜けて、6畳間のほうへ流れていった。
*
その夜、夢を見た。
この部屋の夢だった。
でも、今の部屋とは違っていた。壁には花柄の壁紙が貼ってあって、窓には薄いレースのカーテンがかかっていた。畳は新しくて、い草の青い匂いがした。
私は台所に立っていた。
手元を見ると、見知らぬ手だった。私よりも少し小さくて、指が細い。その手が、やかんから大きなガラスのポットに麦茶を注いでいた。オレンジの花模様の、あのポット。
ラジオがついていた。聞いたことのない歌謡曲が流れていた。
窓際に、誰かが座っていた。
若い男の人の背中だった。白いワイシャツの袖をまくって、窓枠に肘をついて、夜の商店街を眺めている。窓の上の鴨居に、小さな釘が一本打ってあった。何かを吊るすための釘みたいだった。
「ここにさ」
男の人が、振り返らずに言った。
「風鈴、吊るしたら、いいと思わない?」
あの声だった。
夢の中の私の口が、勝手に動いた。私の声じゃなかった。少し高くて、少し拗ねたような、若い女の人の声。
「……買ってくれるの?」
「うん。今度な」
「今度今度って、陽ちゃん、いつもそればっかり」
陽ちゃん。
男の人が、笑いながら振り返ろうとした。
その顔が見える寸前で、目が覚めた。
*
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
私は布団の上で、しばらく動けなかった。
陽ちゃん。
あの声の人の、名前だろうか。
身体を起こして、窓のほうを見た。
窓の上の鴨居に、小さな釘が一本、打ってあった。
夢で見たのと、同じ場所に。
いつからあったのか、分からなかった。引っ越してきたときから、あったのかもしれない。気づいていなかっただけで。
それから、私は壁を見た。
6畳間の、何も貼っていなかった柱に、カレンダーがかかっていた。
紙が黄ばんだ、古いカレンダーだった。信用金庫の名前が入った、日めくりではない月めくりのもの。一番上に、大きな数字が印刷されていた。
昭和61年。
めくられているのは、7月のページだった。ところどころに、鉛筆で小さな書き込みがあった。「陽 残業」「給料日」「みっちゃん 実家」。
私は、ふらふらと柱に近づいた。
7月のページを、そっと、めくった。
8月。
13日の数字が、赤いボールペンで丸く囲まれていた。
その下に、細い字で書き込みがあった。
『風鈴』
私は、その2文字を、長いこと見つめていた。
昭和61年は、西暦でいうと1986年。
40年前の、8月13日。
お盆の、入りの日だった。




