↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ただいまを返してはいけない部屋 ~家賃2万8千円の事故物件で、毎晩11時の「ただいま」に3回返事をしたら終わり~  作者: 中原九尾


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話 2本目の歯ブラシ

 7月9日。午前6時10分。


 スリッパは、捨てた。


 ビニール袋を二重にして、その中に割り箸で摘まみ上げたスリッパを入れ、口をきつく縛った。アパートのゴミ置き場ではなく、会社へ行く途中のコンビニのゴミ箱に押し込んだ。店員さんに見られていないか、何度も振り返った。


 その日の夜、11時に声がきた。


「――ただいま」


 私は布団の中で耳を塞いで、返事をしなかった。


 翌朝、スリッパは玄関に戻っていた。


 紺色の、かかとのすり減ったビニールのスリッパ。つま先を部屋の奥に向けて、きちんと揃えて。


 ビニール袋も、割り箸も、どこにもなかった。スリッパだけが、最初からずっとそこにあったみたいな顔をして、私のパンプスの横に並んでいた。


 私は、もう捨てなかった。


 捨てても戻ってくるなら、捨てるだけ無駄だった。それに、なんとなく、捨てるたびにこの部屋の何かを怒らせているような気がしたのだ。


 スリッパは、たたきの隅に寄せておいた。


   *


 変化は、それだけでは終わらなかった。


 7月10日の朝、洗面台のコップに、歯ブラシが2本立っていた。


 一本は私のピンクのもの。もう一本は、見たことのない青い歯ブラシだった。柄が太くて、毛先がすっかり開いてしまっている。今のドラッグストアでは見かけないような、角ばった古い形。


 7月11日の夜、台所の水切りかごに、箸が2膳並んでいた。


 私の、100円ショップで買った黒い箸。その隣に、使い込まれた木の箸。先のほうが少し黒ずんでいて、持ち手に小さく「よ」と彫ってあった。


 7月13日の朝、冷蔵庫を開けると、ガラスの麦茶ポットが入っていた。


 私は麦茶を作らない。ペットボトルのお茶しか買わない。


 ポットは、昔の喫茶店にあったような分厚いガラスで、表面にオレンジ色の花の模様が描いてあった。中には、よく冷えた麦茶が8分目まで入っていた。


 蓋を開けると、香ばしい匂いがした。煮出したばかりの、ちゃんとした麦茶の匂い。


 私は、それを流しに捨てることができなかった。


 かといって、飲むこともできなかった。


 ポットは冷蔵庫の奥に押しやって、見ないようにした。次の日の朝、冷蔵庫を開けると、ポットは手前に戻っていて、麦茶はまた8分目まで満たされていた。


   *


 怖かった。


 怖かったけれど、同時に、奇妙な感覚があった。


 青い歯ブラシ。「よ」と彫られた木の箸。オレンジの花模様の麦茶ポット。


 どれも、誰かが毎日使っていたものだった。すり減って、開いて、黒ずんで。この部屋で、誰かが毎朝歯を磨き、毎晩ご飯を食べ、夏には麦茶を冷やしていた。


 この部屋が、少しずつ、その誰かの部屋に戻ろうとしている。


 そういう感じがした。


   *


 7月12日の土曜日、私は白萩不動産の店舗を訪ねた。


 駅前の、古い雑居ビルの一階だった。ガラス戸に物件のチラシがびっしり貼ってあって、中は薄暗かった。奥のデスクで、牧野さんがパソコンに向かっていた。


 私の顔を見ると、牧野さんは、ほんの少しだけ肩を落とした。来ると思っていた、という顔だった。


「204号室の、前の住人のことを教えてください」


 牧野さんは、しばらく黙っていた。それから、立ち上がって店の奥の棚からファイルを一冊持ってきた。表紙に、「コーポ白萩」と手書きで書いてあった。


「個人情報なので、お名前はお見せできません。でも、入居と退去の日付だけなら」


 牧野さんが開いたページには、204号室の入居者の記録が並んでいた。昭和の終わりから、今年の春まで。


 私は、その日付を目で追った。


 入居、4月。退去、6月。


 入居、9月。退去、11月。


 入居、2月。退去、3月。


 どの住人も、1年ともたずに出ていっていた。長くて半年。短い人は、ひと月足らず。そして、住人と住人の間には、何年も空き部屋のままだった期間が、ぽっかりと挟まっていた。


 1か所だけ、退去の欄が空白になっている行があった。


 入居、平成21年6月。退去、空欄。その横に、赤いペンで小さく「契約終了」とだけ書き込まれていた。


「ここは」


 私が指さすと、牧野さんは、ファイルを閉じた。


「僕が入社する前のことなので、詳しくは知りません」


 嘘ではないのだろう、と思った。でも、全部でもないのだろう、とも思った。


「家賃が安いのは、古いからじゃないんですね」


 牧野さんは答えなかった。ただ、ファイルを胸に抱えて、低い声で言った。


「春川さん。……返事だけは、しないでくださいね」


 それは、不動産屋の担当者としてではなく、一人の人間として言ってくれた言葉のように聞こえた。


 私は、もう1回しちゃいました、とは言えなかった。


   *


 7月14日。日曜日。午前9時。


 洗濯物を干そうとベランダに出ると、隣の205号室のベランダに、人がいた。


 小柄なおじいさんだった。白いランニングシャツに、灰色のステテコ。手すりに並べた朝顔の鉢植えに、ジョウロで水をやっている。鉢は5つあって、どれも青紫の花がいくつも咲いていた。


 引っ越しの挨拶には行ったけれど、そのときは留守だった。菓子折りはドアノブにかけておいた。


「あの、おはようございます。先日引っ越してきた、春川です」


 おじいさんは、ジョウロを止めてこちらを見た。


 日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていた。目は小さくて鋭くて、でも、どこか眠たげだった。


「……ああ。菓子、ありがとうな」


「いえ」


「久住だ」


 久住さんは、それだけ言って、また朝顔に水をやり始めた。


 私は洗濯物をハンガーにかけながら、話しかける言葉を探していた。ここに何年住んでいるんですか。この部屋のことを、何か知っていますか。夜11時に、隣から声が聞こえたりしませんか。


 どれも、口に出せなかった。


 先に口を開いたのは、久住さんのほうだった。


「あんた」


「はい」


「返事、したろう」


 ハンガーを持つ手が止まった。


 久住さんは朝顔から目を離さなかった。ジョウロの細い水が、鉢の土に吸い込まれていく。


「……どうして、分かるんですか」


「声が、変わったからな」


 久住さんは、ジョウロを置いた。


「あんたが来る前と、来てからと。あいつの声がな。ちょっとだけ、明るくなった」


 あいつ。


 久住さんは、声の主のことを、そう呼んだ。


「知ってるんですか。あの声の人のこと」


「知っとるも何も」


 久住さんは言いかけて、口を閉じた。しばらく、手すりの向こうの商店街の屋根を眺めていた。


「……わしからは、言えん」


「どうしてですか」


「言ったら、あんたはあいつを、ただのお化けだと思わんようになる。それは、あんたのためにならん」


 意味が分からなかった。


 久住さんはジョウロを持ち上げて、部屋に戻ろうとした。私は、思わず手すりから身を乗り出していた。


「あの、下駄箱の貼り紙。あれ、書いたの、久住さんですか」


 久住さんは、ガラス戸に手をかけたまま、振り返らなかった。


「いいや。前の人だ」


「前の人って、春までいた人ですか」


「そうだ。若い男の子でな。大学生だった」


「その人は、どうして出ていったんですか」


 久住さんは、少しの間黙っていた。


「1回、返事をしちまったんだと。あんたと同じだ。それから部屋に、いろんなもんが増えて、怖くなって出ていった。3か月も、もたなかったな」


 3か月。


 私がここに来て、まだ2週間だった。


「貼り紙は、その子が出ていく前に書いていった。次に来る人が、同じ目に遭わんようにってな。律儀な子だった」


 あの几帳面な青い字。四隅を留めたセロハンテープ。


「最後の一行が、擦れて読めないんです。3回目、って字だけ見えて」


「そこは、その子が書いたんじゃない」


 え、と私は声を漏らした。


「その子が来たとき、もう貼り紙はあったんだ。最初の一行だけ、その子が上から書き直した。インクが薄くなっとったから」


 じゃあ、最後の一行を書いたのは。


 擦れた一行を、何度も何度も指でこすったのは。


「その前の人、ですか」


 久住さんは、ようやくこちらを振り返った。


 鋭くて、眠たげな目だった。


「その前の人は」


 朝顔の花が、風に揺れていた。


「3回目の返事をして、この部屋で死んだ」


 ガラス戸が、静かに閉まった。


   *


 その夜、私は10時半から台所の電気をつけ、布団の上に座って、すりガラスを見つめていた。


 11時。


 かちゃり。


「――ただいま」


 私は、唇を噛んで黙っていた。


 声は、それきりだった。


 けれど、久住さんの言った通りだった。


 今夜の「ただいま」は、最初の夜よりも、ほんの少しだけ、明るかった。


 帰ってきたら、返事をしてくれる人がいる部屋。それを知っている人の、声だった。


 翌朝、洗面台の鏡の前で、私は2本並んだ歯ブラシを見つめていた。


 ピンクと、青。


 寄り添うように、同じコップに立っていた。


 私はそれを、少しだけ、きれいだと思ってしまった。


 思ってしまったことが、何よりも怖かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。