第3話 2本目の歯ブラシ
7月9日。午前6時10分。
スリッパは、捨てた。
ビニール袋を二重にして、その中に割り箸で摘まみ上げたスリッパを入れ、口をきつく縛った。アパートのゴミ置き場ではなく、会社へ行く途中のコンビニのゴミ箱に押し込んだ。店員さんに見られていないか、何度も振り返った。
その日の夜、11時に声がきた。
「――ただいま」
私は布団の中で耳を塞いで、返事をしなかった。
翌朝、スリッパは玄関に戻っていた。
紺色の、かかとのすり減ったビニールのスリッパ。つま先を部屋の奥に向けて、きちんと揃えて。
ビニール袋も、割り箸も、どこにもなかった。スリッパだけが、最初からずっとそこにあったみたいな顔をして、私のパンプスの横に並んでいた。
私は、もう捨てなかった。
捨てても戻ってくるなら、捨てるだけ無駄だった。それに、なんとなく、捨てるたびにこの部屋の何かを怒らせているような気がしたのだ。
スリッパは、たたきの隅に寄せておいた。
*
変化は、それだけでは終わらなかった。
7月10日の朝、洗面台のコップに、歯ブラシが2本立っていた。
一本は私のピンクのもの。もう一本は、見たことのない青い歯ブラシだった。柄が太くて、毛先がすっかり開いてしまっている。今のドラッグストアでは見かけないような、角ばった古い形。
7月11日の夜、台所の水切りかごに、箸が2膳並んでいた。
私の、100円ショップで買った黒い箸。その隣に、使い込まれた木の箸。先のほうが少し黒ずんでいて、持ち手に小さく「よ」と彫ってあった。
7月13日の朝、冷蔵庫を開けると、ガラスの麦茶ポットが入っていた。
私は麦茶を作らない。ペットボトルのお茶しか買わない。
ポットは、昔の喫茶店にあったような分厚いガラスで、表面にオレンジ色の花の模様が描いてあった。中には、よく冷えた麦茶が8分目まで入っていた。
蓋を開けると、香ばしい匂いがした。煮出したばかりの、ちゃんとした麦茶の匂い。
私は、それを流しに捨てることができなかった。
かといって、飲むこともできなかった。
ポットは冷蔵庫の奥に押しやって、見ないようにした。次の日の朝、冷蔵庫を開けると、ポットは手前に戻っていて、麦茶はまた8分目まで満たされていた。
*
怖かった。
怖かったけれど、同時に、奇妙な感覚があった。
青い歯ブラシ。「よ」と彫られた木の箸。オレンジの花模様の麦茶ポット。
どれも、誰かが毎日使っていたものだった。すり減って、開いて、黒ずんで。この部屋で、誰かが毎朝歯を磨き、毎晩ご飯を食べ、夏には麦茶を冷やしていた。
この部屋が、少しずつ、その誰かの部屋に戻ろうとしている。
そういう感じがした。
*
7月12日の土曜日、私は白萩不動産の店舗を訪ねた。
駅前の、古い雑居ビルの一階だった。ガラス戸に物件のチラシがびっしり貼ってあって、中は薄暗かった。奥のデスクで、牧野さんがパソコンに向かっていた。
私の顔を見ると、牧野さんは、ほんの少しだけ肩を落とした。来ると思っていた、という顔だった。
「204号室の、前の住人のことを教えてください」
牧野さんは、しばらく黙っていた。それから、立ち上がって店の奥の棚からファイルを一冊持ってきた。表紙に、「コーポ白萩」と手書きで書いてあった。
「個人情報なので、お名前はお見せできません。でも、入居と退去の日付だけなら」
牧野さんが開いたページには、204号室の入居者の記録が並んでいた。昭和の終わりから、今年の春まで。
私は、その日付を目で追った。
入居、4月。退去、6月。
入居、9月。退去、11月。
入居、2月。退去、3月。
どの住人も、1年ともたずに出ていっていた。長くて半年。短い人は、ひと月足らず。そして、住人と住人の間には、何年も空き部屋のままだった期間が、ぽっかりと挟まっていた。
1か所だけ、退去の欄が空白になっている行があった。
入居、平成21年6月。退去、空欄。その横に、赤いペンで小さく「契約終了」とだけ書き込まれていた。
「ここは」
私が指さすと、牧野さんは、ファイルを閉じた。
「僕が入社する前のことなので、詳しくは知りません」
嘘ではないのだろう、と思った。でも、全部でもないのだろう、とも思った。
「家賃が安いのは、古いからじゃないんですね」
牧野さんは答えなかった。ただ、ファイルを胸に抱えて、低い声で言った。
「春川さん。……返事だけは、しないでくださいね」
それは、不動産屋の担当者としてではなく、一人の人間として言ってくれた言葉のように聞こえた。
私は、もう1回しちゃいました、とは言えなかった。
*
7月14日。日曜日。午前9時。
洗濯物を干そうとベランダに出ると、隣の205号室のベランダに、人がいた。
小柄なおじいさんだった。白いランニングシャツに、灰色のステテコ。手すりに並べた朝顔の鉢植えに、ジョウロで水をやっている。鉢は5つあって、どれも青紫の花がいくつも咲いていた。
引っ越しの挨拶には行ったけれど、そのときは留守だった。菓子折りはドアノブにかけておいた。
「あの、おはようございます。先日引っ越してきた、春川です」
おじいさんは、ジョウロを止めてこちらを見た。
日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていた。目は小さくて鋭くて、でも、どこか眠たげだった。
「……ああ。菓子、ありがとうな」
「いえ」
「久住だ」
久住さんは、それだけ言って、また朝顔に水をやり始めた。
私は洗濯物をハンガーにかけながら、話しかける言葉を探していた。ここに何年住んでいるんですか。この部屋のことを、何か知っていますか。夜11時に、隣から声が聞こえたりしませんか。
どれも、口に出せなかった。
先に口を開いたのは、久住さんのほうだった。
「あんた」
「はい」
「返事、したろう」
ハンガーを持つ手が止まった。
久住さんは朝顔から目を離さなかった。ジョウロの細い水が、鉢の土に吸い込まれていく。
「……どうして、分かるんですか」
「声が、変わったからな」
久住さんは、ジョウロを置いた。
「あんたが来る前と、来てからと。あいつの声がな。ちょっとだけ、明るくなった」
あいつ。
久住さんは、声の主のことを、そう呼んだ。
「知ってるんですか。あの声の人のこと」
「知っとるも何も」
久住さんは言いかけて、口を閉じた。しばらく、手すりの向こうの商店街の屋根を眺めていた。
「……わしからは、言えん」
「どうしてですか」
「言ったら、あんたはあいつを、ただのお化けだと思わんようになる。それは、あんたのためにならん」
意味が分からなかった。
久住さんはジョウロを持ち上げて、部屋に戻ろうとした。私は、思わず手すりから身を乗り出していた。
「あの、下駄箱の貼り紙。あれ、書いたの、久住さんですか」
久住さんは、ガラス戸に手をかけたまま、振り返らなかった。
「いいや。前の人だ」
「前の人って、春までいた人ですか」
「そうだ。若い男の子でな。大学生だった」
「その人は、どうして出ていったんですか」
久住さんは、少しの間黙っていた。
「1回、返事をしちまったんだと。あんたと同じだ。それから部屋に、いろんなもんが増えて、怖くなって出ていった。3か月も、もたなかったな」
3か月。
私がここに来て、まだ2週間だった。
「貼り紙は、その子が出ていく前に書いていった。次に来る人が、同じ目に遭わんようにってな。律儀な子だった」
あの几帳面な青い字。四隅を留めたセロハンテープ。
「最後の一行が、擦れて読めないんです。3回目、って字だけ見えて」
「そこは、その子が書いたんじゃない」
え、と私は声を漏らした。
「その子が来たとき、もう貼り紙はあったんだ。最初の一行だけ、その子が上から書き直した。インクが薄くなっとったから」
じゃあ、最後の一行を書いたのは。
擦れた一行を、何度も何度も指でこすったのは。
「その前の人、ですか」
久住さんは、ようやくこちらを振り返った。
鋭くて、眠たげな目だった。
「その前の人は」
朝顔の花が、風に揺れていた。
「3回目の返事をして、この部屋で死んだ」
ガラス戸が、静かに閉まった。
*
その夜、私は10時半から台所の電気をつけ、布団の上に座って、すりガラスを見つめていた。
11時。
かちゃり。
「――ただいま」
私は、唇を噛んで黙っていた。
声は、それきりだった。
けれど、久住さんの言った通りだった。
今夜の「ただいま」は、最初の夜よりも、ほんの少しだけ、明るかった。
帰ってきたら、返事をしてくれる人がいる部屋。それを知っている人の、声だった。
翌朝、洗面台の鏡の前で、私は2本並んだ歯ブラシを見つめていた。
ピンクと、青。
寄り添うように、同じコップに立っていた。
私はそれを、少しだけ、きれいだと思ってしまった。
思ってしまったことが、何よりも怖かった。




