第2話 1回目
7月8日。午後10時30分。
1週間が経った。
声は、毎晩きた。
11時ちょうど。鍵が回る音。ドアが開く音。湿った涼しい風と、線香のような甘い匂い。それから、「ただいま」。
一晩も欠かさなかった。雨の夜も、蒸し暑い夜も。私が残業で遅くなって、10時50分に部屋へ駆け込んだ夜も、声は11時きっかりに玄関からやってきた。まるで、私の帰りを待ってから帰ってくるみたいに。
最初の3日は、眠れなかった。
4日目に、台所の電気をつけっぱなしにして寝ることを覚えた。
5日目に、イヤホンで音楽を流しながら11時をやり過ごそうとした。無駄だった。音楽の隙間から、あの声はするりと耳の奥に入ってきた。イヤホンを通して聞こえたのではなく、頭の内側で直接鳴ったような気がした。
6日目に、ネットカフェに泊まろうかと考えた。でも、給料日前の財布の中身を見て、やめた。
3日目の夜には、スマホで録音もしてみた。
10時55分に録音ボタンを押して、枕元に置いた。声は、いつも通りにやってきた。かちゃり。ドアの音。ただいま。
翌朝、震える指で再生した。
最初の5分は、私の浅い呼吸と、窓の外を通る車の音だけが入っていた。
11時ちょうどで、音が、ぷつりと途切れた。
無音だった。車の音も、私の呼吸も、何も聞こえない。音量を最大にしても、機械の小さなノイズすら入っていない、完全な無音。それが、きっかり10秒続いた。
10秒が過ぎると、また私の呼吸が戻ってきた。さっきよりも、ずっと荒くなった呼吸が。
ただ、無音が終わる直前に、一音だけ、何かが入っていた。
何度も巻き戻して聞いた。耳にスマホを押し当てて、息を止めて。
――ま。
若い男の人の声の、語尾だけだった。
私は、その録音をすぐに消した。消してから、消したことを少し後悔した。証拠を残しておけば、誰かに信じてもらえたかもしれない。でも、あの一音が入ったファイルを、自分のスマホの中に置いておくことが、どうしてもできなかった。
そして7日目の昨夜、私は気づいてしまった。
声を聞いても、それほど怖くなくなっている自分に。
*
「春川さん、引っ越し、落ち着いた?」
昼休み、会社の休憩室で、佐伯さんがコンビニのサラダをつつきながら訊いてきた。
佐伯奈央さんは、私の6つ上の先輩だ。経理と総務を一人でこなしていて、いつも手際がよくて、言葉に遠慮がない。入社初日に「東京から来たの? なんで?」とまっすぐ訊いてきたのも、この人だった。
「まあ、だいたいは」
「白萩のアパートだっけ。商店街の奥の」
「知ってるんですか」
「私、あの辺の生まれだもん。古いでしょ、あそこ」
佐伯さんはプラスチックのフォークを振って笑った。
「子供の頃さ、あのアパート、出るって噂があったよ」
私は、お茶のペットボトルを持った手を止めた。
「……出る、って」
「幽霊。2階の真ん中の部屋。夜になると、誰もいないのに『ただいま』って声がするんだって。小学生の間で流行った怪談。友達と肝試しに行って、アパートの下で11時まで待ったりしてさ」
2階の真ん中。
コーポ白萩の2階には、部屋が3つある。203、204、205。
真ん中は、204だ。
「……それで、声は聞こえたんですか」
「聞こえるわけないじゃん。外にいたんだもん」
佐伯さんは笑って、それから私の顔を見て、フォークを止めた。
「え、ちょっと。春川さん、まさか」
「違います」
私は、自分でも驚くくらい早く答えていた。
「違いますよ。203です、私の部屋」
嘘をついた理由は、自分でもよく分からなかった。
たぶん、口に出したら本当になってしまう気がしたのだと思う。それから、もうひとつ。佐伯さんに「そんな部屋、すぐ出なよ」と言われたら、私には反論する言葉がなかった。家賃2万8千円の部屋を出て、次に住む場所の当てはどこにもなかった。
「なんだ、びっくりした。まあ、ただの噂だよ」
佐伯さんはそう言って、サラダの続きに戻った。
私はお茶を一口飲んだ。ぬるかった。
*
その日は、ひどい一日だった。
午後、得意先に出すはずのチラシの版下に、誤植が見つかった。私が入力した電話番号の数字が、一桁違っていた。すでに5000部が刷り上がっていた。
営業の課長に呼ばれて、会議室で30分、立ったまま話を聞いた。怒鳴られはしなかった。課長は静かな声で、「東京ではどうだったか知らないけど」と前置きしてから、確認の手順について説明した。一言一言が丁寧で、だからこそ逃げ場がなかった。
刷り直しの手配をして、得意先に電話で謝って、お詫びの文書を作って、会社を出たのは9時半を過ぎていた。
帰り道、商店街のシャッターはほとんど下りていた。一軒だけ開いていた八百屋の前を通り過ぎると、店先で風鈴が鳴った。ちりん。
東京を辞めたときと、同じ感じがした。
身体の芯のところが、じわじわと冷えていく感じ。自分がどこにも役に立たない、どこにいても迷惑をかけるだけの人間なんじゃないかという、あの感じ。
コーポ白萩の外階段を上る。錆びた鉄の段が、一段ごとにかん、かん、と鳴った。
204号室の鍵を開け、中に入って、ドアを閉めた。
鍵をかけ、チェーンをかける。
「……ただいま」
小さな声で言ってみた。
誰も返事をしなかった。当たり前だ。この部屋には、私しかいない。
*
シャワーを浴びる気力もなかった。
着替えだけして、布団に倒れ込んだ。台所の電気をつけるのを忘れた。スマホを見ると、10時42分だった。
あと18分。
起きなきゃ、と思った。起きて、電気をつけて、11時をやり過ごさなきゃ。
でも、身体が動かなかった。
まぶたが重かった。天井の木目が、ゆっくりとぼやけていった。どこか遠くで、風鈴が鳴っていた。商店街の八百屋のものだろうか。それとも、もっと別の場所の――。
夢を見ていた。
小学生の頃の夢だった。夏休みのプールから帰ってきて、濡れた髪のまま玄関の戸を開ける。台所から、醤油と砂糖を煮詰める甘い匂いがする。まだ父がいた頃の家だ。
ただいま、と私は言う。
台所の暖簾の向こうから、母の声がする。
――おかえり。手、洗いなさいよ。
それだけの夢だった。
かちゃり。
鍵の回る音で、半分だけ目が覚めた。
夢と現実の境目が、うまく分からなかった。台所の電気はついていなかった。暗い6畳間に、すりガラスの引き戸の輪郭だけが、外の街灯の明かりでぼんやりと浮かんでいた。
ドアの開く音。湿った涼しい風。
「――ただいま」
あの声だった。疲れていて、少し照れくさそうな、いつもの声。
半分眠った頭のどこかで、夢の続きだと思っていた。夏休みの、醤油の匂いのする台所。帰ってきた誰かに、返事をしなくちゃいけない。そうしないと、その人が寂しいから。
「……はーい」
声が、出ていた。
寝ぼけた、間の抜けた返事だった。
言ってしまってから、目が覚めた。
全身の血が、足元に向かって落ちていくのが分かった。
私は布団の上に跳ね起きた。暗い6畳間。すりガラスの向こうの、暗い台所。何も見えない。何も聞こえない。
ただ、すりガラスの向こうで、空気が変わった。
それまで玄関のあたりで止まっていた湿った風が、ふうっと、部屋の奥まで流れ込んできた。まるで、誰かが安心して、靴を脱いで、上がり込んできたみたいに。
線香の匂いが、いつもよりずっと濃かった。
すりガラスの向こうで、畳を踏む足音がしたような気がした。
一歩。
それきり、何も聞こえなくなった。
*
朝まで、一睡もできなかった。
布団の上で膝を抱えて、壁に背中をつけたまま、すりガラスを見つめていた。窓の外が明るくなり、商店街のほうから、シャッターを上げる音が聞こえ始めた。
6時。
私は立ち上がって、すりガラスの引き戸を開けた。
台所は、いつも通りだった。流しに昨夜のコップがひとつ。冷蔵庫。2口のガスコンロ。何も変わっていない。
玄関を見た。
たたきの上に、私のパンプスとスニーカーが並んでいた。昨夜、脱ぎっぱなしにした形のまま。
その横に。
スリッパが一足、揃えて置いてあった。
男物だった。
紺色の、古いビニールのスリッパ。かかとのところがすり減って、白っぽくなっている。つま先を部屋の奥に向けて、きちんと揃えてあった。
たった今、誰かがそれを履いて、部屋に上がっていったみたいに。
私は、そのスリッパに触れることができなかった。
下駄箱の扉が、また少しだけ開いていた。
隙間から、黄ばんだ便箋が見えた。
擦れて読めない、最後の一行。3回目、という字の形。
私は震える手で、スマホのメモを開いた。
日付を打ち込んだ。7月8日。
その横に、1、と書いた。
書いてから、それが何の数字なのかを自分に言い聞かせるのが怖くて、私はスマホを伏せた。




