第1話 夜11時の声
7月1日。午後2時。
「こちらが204号室になります」
不動産屋の牧野さんが鍵を回すと、ドアは思ったよりも軽い音で開いた。
途端に、むっとした空気が顔にかかった。閉め切っていた部屋に特有の、埃と古い畳の匂い。それから、ほんの少しだけ、線香のような甘い匂いが混じっていた。
「ずっと空いてたんですか」
「ええ、まあ。春先まではいらっしゃったんですけどね」
牧野さんは私より少し年上くらいの男の人で、よく日に焼けていて、よく笑う。その笑顔が、この部屋に入ってから少しだけ固くなったような気がしたけれど、気のせいだと思うことにした。
コーポ白萩。鳴瀬駅から歩いて15分。築48年の木造モルタル2階建て。6畳の和室と4畳半の台所、狭いけれど独立した風呂とトイレ。窓は南向きで、ベランダの向こうには古い商店街の屋根が並んでいる。
家賃は、2万8千円。
この辺りの相場の、ほぼ半分だった。
「本当に、この金額でいいんですよね」
内見のときにも確認したことを、もう一度訊いた。牧野さんは「ええ、もちろん」と言って、書類の束を私に手渡した。
「古い建物ですから。その分、お安くなってます」
古いから安い。それ以上の理由を、私は訊かなかった。訊いてしまったら、ここに住めなくなるかもしれない。そして私には、ここに住めなくなったら行くところがなかった。
*
東京の制作会社を辞めたのは、この春のことだ。
広告のバナーや販促物を作る小さな会社で、1年半働いた。終電で帰れれば早いほうで、机の下で寝袋にくるまって朝を迎えた日も、数えるのをやめるくらいあった。ある朝、駅のホームで電車を3本見送ったあと、4本目にも乗れなかった。足が動かなかった。
それで、辞めた。
実家に戻るという選択肢もあった。電車で40分の隣町に、母がひとりで住んでいる。けれど、上京するときに母が言った言葉が、まだ喉の奥に刺さったままだった。
――どうせ、すぐ帰ってくることになるわよ。
その通りになった。だからこそ、実家の玄関をくぐることだけはできなかった。
鳴瀬市の小さな印刷会社に事務の仕事を見つけて、ここに部屋を借りた。実家から近すぎず、遠すぎない場所。帰ろうと思えば帰れるけれど、帰らない理由も作れる距離。
自分でも、情けない選び方だと思う。
*
引っ越し業者のトラックが帰ったのは、夕方の6時過ぎだった。
段ボールは12箱。東京で暮らした1年半の全部が、それだけに収まってしまった。私はひとまず布団と、台所用品の箱と、洗面用具だけを開けた。残りは明日でいい。
コンビニの弁当を食べ、シャワーを浴びて、髪を乾かす。窓を開けると、商店街のほうから夜風が入ってきた。どこかの家の風鈴が、ちりん、と鳴った。
静かな部屋だった。
東京のワンルームでは、隣の部屋のテレビの音も、上の階の足音も、全部筒抜けだった。ここは古い木造なのに、不思議なほど音がしない。隣の205号室にはお年寄りが一人で住んでいると聞いたけれど、物音ひとつ聞こえてこなかった。
明日からの準備をしようと思って、玄関の靴を片付けることにした。
下駄箱は、作り付けの古い木製のものだった。扉を開けると、中は空っぽで、防虫剤の匂いがした。私はスニーカーとパンプスを2足ずつ並べ、サンダルを一番下の段に入れようとして、しゃがみ込んだ。
扉の裏側に、紙が一枚、貼ってあった。
黄ばんだ便箋だった。四隅をセロハンテープで留めてあって、そのテープもすっかり茶色く変色している。
青いボールペンの、几帳面な字だった。
『夜11時に玄関から声がしても、返事はしないでください。』
その下に、もう一行あった。
けれど、そこだけ何度も指でこすったみたいに文字が擦れていて、読めなかった。かろうじて「3回目」という字の形だけが分かった。
私はしばらく、その紙を眺めていた。
前の住人の、いたずらだろうか。それとも、何かの冗談だろうか。夜11時に玄関から声。酔っ払いが部屋を間違えて帰ってくる、ということだろうか。古いアパートだから、ドアの鍵がゆるいのかもしれない。
剥がそうと思って、テープに爪をかけた。
でも、剥がせなかった。
理由は分からない。ただ、これを剥がしてはいけないような気がした。この紙を書いた人は、ずいぶん丁寧に、四隅を留めている。誰かに読ませるために。次にここに住む誰かに。
私は下駄箱の扉を閉めた。
*
時計を見ると、10時40分だった。
布団に入ったものの、眠れなかった。新しい部屋の天井は見慣れなくて、木目の模様が人の顔に見えたりする。スマホで意味もなくニュースを眺め、閉じ、また開いた。
10時55分。
貼り紙のことは、考えないようにしていた。
考えないようにしているということは、つまり、ずっと考えているということだった。
10時58分。
窓の外で、車が一台通り過ぎていった。ヘッドライトの光が、カーテンの隙間から天井を横切っていく。
10時59分。
私は布団の中で、なぜか息を殺していた。馬鹿みたいだと思った。24にもなって、こんな子供騙しの貼り紙ひとつで。
スマホの画面の数字が、切り替わった。
11時ちょうど。
何も起こらなかった。
ほら、と私は思った。ほら、やっぱり。息を吐いて、スマホを枕元に置いた。目を閉じる。
かちゃり。
玄関のほうで、音がした。
目を開けた。
鍵の、音だった。鍵穴に鍵を差し込んで、回す音。東京で1年半、毎晩聞いていた音だから、間違えようがなかった。
でも、玄関の鍵は、私がかけた。チェーンもかけた。確かにかけた。
きい、とドアが開く音がした。
チェーンが張る音は、しなかった。
私は布団の中で、身体を固くしていた。6畳間と台所の間には、すりガラスの引き戸がある。その向こうが、すぐ玄関だ。引き戸は閉めてある。閉めてあるはずだ。
足音はしなかった。
ただ、玄関のあたりの空気が、ふっと動いた気がした。夏の夜の生ぬるい空気とは違う、雨上がりのような、湿った涼しい風。
そして。
「――ただいま」
若い男の人の声だった。
少し疲れていて、でも、どこか照れくさそうな声。一日の仕事を終えて、ようやく帰ってきた人の声。
玄関で靴を脱ぎながら、奥にいる誰かに向かって言うような、あたりまえの「ただいま」だった。
私は口を開きかけていた。
反射だった。東京では誰も言ってくれなかったし、私も誰にも言わなかった言葉。子供の頃、学校から帰ると母が台所から返してくれた言葉。その声があまりにも自然だったから、喉が勝手に、あの言葉の形を作ろうとしていた。
お、と。
私は両手で、自分の口を押さえた。
下駄箱の貼り紙の、青い字が頭の中に浮かんだ。
返事はしないでください。
指の隙間から、息が漏れた。心臓の音がうるさかった。玄関の向こうの誰かに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい。
声は、それきりだった。
しばらく待っても、何も聞こえなかった。足音も、ドアが閉まる音も。ただ、あの湿った涼しい空気だけが、すりガラスの引き戸の隙間から、ゆっくりと6畳間に流れ込んできた。
線香のような、甘い匂いがした。
*
どれくらい、そうしていたのか分からない。
気がつくと、スマホの時計は11時20分を指していた。私は布団から這い出して、すりガラスの引き戸に手をかけた。
開けたくなかった。でも、開けずに朝まで過ごすことのほうが、もっと怖かった。
一気に、引いた。
台所には、誰もいなかった。
蛍光灯のスイッチを入れる。白い光が、狭い台所と玄関を照らし出した。
ドアは、閉まっていた。
鍵も、かかっていた。
チェーンも、ちゃんとかかったままだった。
私は玄関のたたきに下りて、ドアノブに触れた。冷たかった。真夏の夜なのに、金属のノブは、冷蔵庫から出したばかりの缶みたいに冷えていた。
下駄箱の扉が、少しだけ開いていた。
閉めたはずだった。確かに閉めた。
隙間から、あの黄ばんだ便箋が見えていた。
『夜11時に玄関から声がしても、返事はしないでください。』
私はその文字を、長いこと見つめていた。
それから、下駄箱の扉をそっと閉めて、台所の電気をつけたまま、布団に戻った。
眠れたのは、窓の外が白み始めてからだった。
*
翌朝、出勤前に不動産屋に電話をかけた。
「あの、昨日入居した春川です。204号室の」
『ああ、春川さん。おはようございます。何か不具合でも?』
「下駄箱に、貼り紙があったんですけど」
電話の向こうで、牧野さんが一瞬、黙った。
ほんの一瞬だった。でも、確かに黙った。
『……ああ、あれですか。前の方が貼っていったものだと思います。剥がしておかなくて、すみませんでした』
「夜11時に声がするって」
『古い建物ですからね。音が響くんですよ。隣の方の声とか、外の通りの声とか』
牧野さんの声は明るかった。明るすぎた。
『何かあったら、いつでもご連絡ください。それでは』
電話は、向こうから切れた。
私はスマホを握ったまま、玄関に立っていた。
下駄箱の扉を、もう一度開ける。
貼り紙の下の、擦れて読めない一行。何度も指でこすったような跡。
前の住人は、この一行を消そうとしたのだろうか。
それとも、この一行を、何度も何度も、指でなぞって確かめていたのだろうか。
3回目、という字の形だけが、薄く、残っていた。
*
駅へ向かう途中、アパートの前の通りを商店街のほうへ少し歩くと、信号のある交差点がある。
赤信号で立ち止まったとき、足元の電柱の根元に、ガラスの牛乳瓶が置いてあるのに気づいた。
中には、萎れかけた小菊が2本、挿してあった。瓶の水は濁って、底に枯れた葉が沈んでいる。誰かが、ずいぶん前に供えていったものらしかった。
この交差点で、誰かが亡くなったのだろうか。
私は、なんとなく瓶から目を逸らした。
信号が青に変わる。横断歩道を渡りながら、ふと、振り返った。
コーポ白萩の2階の、真ん中の窓が見えた。
204号室。私の部屋。
カーテンを閉めてきたはずの窓に、一瞬だけ、白いレースのようなものが揺れて見えた。
瞬きをすると、見慣れたベージュのカーテンに戻っていた。
朝の光の加減だろう。そう思うことにして、私は駅へ急いだ。
背中のほうで、どこかの家の風鈴が、ちりん、と鳴った。




