四話
走りながら、彩芽は泣いていた。
涙が出ていることに気づいたのは、路地を二つ曲がってからだった。何度も手の甲で拭っても、涙は止まらず、走り続けていた。彩芽は自分がなぜ泣いているのかを考えようとして、やめた。考えたくはなかったから。
息を切らせながら走っていると、自然と以前、蓮と歩いた川沿いについていた。
時間はもう深夜に差し掛かるころで、人はいなかった。桜はもう散り始めていて、花びらが水面を流れていくのが見えた。彩芽は河川敷へゆっくりと降りていき、足を止めて、しばらく息を整えた。心臓の鼓動が耳の中で響いていた。
蓮の顔が、頭から離れなかった。
見てはいけないものを見てしまった、というような顔ではなかった。彩芽を責めようとしてるわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ、何か大切なものが壊れていくのを、どうにもできないまま見ているような、呆然とした顔だった。
蓮のその顔を思い出すたび、心臓はまだ激しく揺れているはずなのに、胸の部分が凍り付くような感覚を覚えた。
怒鳴られた方が、軽蔑された方が、良かった。そういう顔なら、知っている。慣れていた。小さい頃からずっと、そういう顔を向けられてきたから。
父親や母親、年の離れた兄や姉の顔を思い出した。
思い出しくなかった。それなのに今は頭の奥から這い出てきた。
彩芽の苗字は"九条"と言い、有名な演出家の父親のものだった。母親はそんな演出家の父のもとで名をはせた女優だった。兄や姉はそんな両親の才能を受け継ぎ、既に何度も舞台やテレビに出ていた。
九条家というのは、地元では、どこへ行っても一目置かれる名前だった。父が手がけた舞台の話になると、みんなの顔つきが変わった。母の出演した映画を知っていると言うと、初対面の人間でも急に親しげになった。その名前は、家の外ではいつも、輝いていた。
リビングのソファには、いつも脚本や台本が積み上がっていた。食卓に家族全員が揃うことはほとんどなく、揃ったとしても父は資料を読んでいて、母は誰かと電話をしていた。会話は、次の仕事の話か、兄や姉の出演情報か、そういうことだった。それ以外の話題は、あまり長続きしなかった。
彩芽はその食卓で、いつも静かにご飯を食べた。
最初は父も、母も、兄や姉と同じように彩芽が才能を開花させるだろうと期待があったのだと思う。幼い頃、父に「彩芽も舞台に立ちたいか」と聞かれたことがあった。彩芽はよくわからないまま頷いた。父はそのとき、少しだけ笑った。そんな父と彩芽をみて、母も微笑んでいた。その二人の笑顔を、彩芽はずっと覚えていた。
しかし、何年時が経とうとも、彩芽には父や母が期待するような才能は芽吹かなかった。歌も、踊りも、人前に立つことも、どれも人並みにしかできなかった。兄は中学生で初舞台を踏み、姉は高校在学中にドラマに出た。彩芽が同じ年齢になっても、何も起きなかった。
父と母の視線が、変わっていったのはいつ頃からだったか。
ある日の夕食で、父が姉の仕事の話をしていた。彩芽もその話を聞きながら、何か言おうとした。でも父の視線は彩芽を素通りして、また姉の方へ戻っていった。言いかけた言葉を、彩芽は飲み込んだ。母も、兄も、特に気にした様子はなかった。
そういうことが、少しずつ、積み重なっていった。
次第に家の中に彩芽の居場所はなくなっていった。居場所がないというのは、追い出されるということではなく、ただ、いてもいなくても同じになっていくということだった。食卓の彩芽の席はあった。部屋もあった。でも、誰かが彩芽の方を向いて話しかけてくることが、少しずつ減っていって、彩芽が何かを言っても、返ってくるまでに少し間があった。その間が、毎年少しずつ長くなっていった。
あの家の中で、彩芽が学んだことがある。
自分の存在は、誰かにとって都合が悪い。だから小さくなっていなければならない。目立ってはいけない。泣いてはいけない。ほしいと言ってはいけない。
それでも、ずっと、何かを待っていた。
お帰りと言われること。ご飯ができたよと呼ばれること。おやすみと声をかけられること。そういうことを、どこかでずっと待っていた。でも来なかった。来ないことに気づいた頃には、もう求めることもやめていた。求め方も、次第に忘れていった。
高校の卒業式の翌朝、リュックに荷物を詰めた。多くはなかった。玄関でローファーを履いて、ドアを開けて、振り返った。ただ、静かな長い廊下があって、誰もいなかった。家族は、起きてこなかった。
彩芽はドアを閉めた。
それから一か月間、何をしていたかは、あまり覚えていない。ただ、生きるために必要なことをした。体を売ることもした。ただ、どんな目的だったとしても、他者から体を求められることで、自分の中の何かが満たされていく感覚があった。でも、すぐに満たされたものは出て行った。きっと心に穴が開いていたのだ。
初めて蓮の部屋で食事をした夜のことを、彩芽は思い出していた。
あり合わせだと言っていたのに、ちゃんと温かいシチューの湯気が、顔に当たるあの感覚を、うまく言葉にはできなかった。ただ、スプーンを持つ手が、少し震えていたのを覚えている。気づかれていないといいと思いながら、静かに飲んだ。
プリンのことも思い出していた。
少し目をやっただけだった。蓮に言ったわけでもなかった。それなのに翌日、蓮はそれを買ってきた。どうぞ、と差し出されたカップを受け取りながら、彩芽はどんな顔をしていいかわからなかった。ありがとうございます、とだけ言って、受け取って、その夜、テレビを見ながらゆっくり食べた。無くなるのが、惜しかった。
桜の下に、二人で立っていた夜のことも。
もう少しだけ、と言ったのは彩芽だった。自分でも、そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。でも蓮は何も言わずに、ただ微笑んで、また一緒に桜を見上げてくれた。
帰り道、蓮の少し後ろを歩きながら、彩芽はずっとその背中を見ていた。街灯が作った自分の影が、蓮の足元まで伸びていた。このまま、どこまでもついていけたらいいと思った。そう思ってしまってから、怖くなった。
蓮と出会ってからの日々は、穏やかだった。柔らかくて、暖かくて、彩芽が知っているどんな時間とも違っていた。
でもその暖かさを失ったとき、今度こそ、取り返しがつかない気がした。
それが怖くて、逃げ出した。自分の中の恐怖や寂しさを癒すために、また他人と体を合わせようとした。
でも蓮の顔が、頭の中に張り付いて離れなかった。
責めてほしかったのだろうか。怒って欲しかったのだろうか。そうすれば、またあの場所に戻れたのだろうか。でも蓮は、そういう顔をしなかった。
彩芽はゆっくりと地面に座り込んで、膝を抱えた。
川の水が、暗闇の中を流れていた。花びらがその上を、どこかへ向かって流れていった。どこへ行くのか、途中で消えてしまうのか、彩芽には見えなかった。
痛かった。
胸の部分をナイフで貫かれたような痛みだった。抜こうとして、手をやっても、空を掴んで、抜けなかった。
血の代わりに、ただ涙だけが出続けて、声は出なかった。止め方がわからなかった。こんなに泣いたのは、いつ以来だろうか。思い出せない。たぶん、泣く前に、泣き方を忘れていたのだと思う。
心臓の音は落ち着き、彩芽の耳の中で、川のせせらぎだけが響き続けていた。




