三話
その日、蓮はいつもより少し早く仕事が終わった。
帰り道、コンビニの前を通ったとき、彩芽が好きそうなプリンの新しい味が出ているのが目に入った。少し足を止めてから、買って帰ろうと思い、入った。プリンを手に取りながら、彩芽、喜ぶかなと、蓮は口の端が緩くなるのを感じていた。
「ただいまー……彩芽?」
玄関のドアを開けると、部屋の中が暗かった。電気がついていなかった。
彩芽、と何度か声をかけても、返事は帰って来なかった。洗面所をのぞいても、人の気配はなく、リュックもなかった。
スーパーの袋を、テーブルの上に置いた。置いてから、その行為がひどく間抜けに思えた。
蓮はしばらく部屋の真ん中に立っていた。
出かけているだけかもしれない。そう思おうとした。でも、リュックごとなくなっているのが引っかかる。彩芽は、いつも買い物に行くときは、財布だけ持っていたが、リュックを持って出ることはなかった。それに、メモ一枚も何もテーブルの上に置いていなかった。
蓮はダウンコートを脱がずに、もう一度外へ出た。足取りは焦るように、早かった。
あてもなく、彩芽がいそうな場所を歩いた。コンビニの前の公園。スーパーの中。川沿いの道。
商店街の方へ向かうと、夜でも人通りがあって、明かりがあった。でも通りの横の路地にはその明るさは届いていなかった。薄暗いその路地の先は、あまり良い噂を聞かない歓楽街に続いている。蓮は一抹の不安を覚えながら、路地へと入って行った。
細い路地道を抜けると、道路を挟んだ向かい側に歩いている人影が見えた。
彩芽だった。
隣に、見知らぬ男がいた。歳は蓮や彩芽と比べると大分上だろうか。男はスーツ姿で、二人の距離が近く、彩芽と男の雰囲気は男女の雰囲気のそれだった。しかし本物ではない気がした。その違和感がなんだったのか、すぐに答えは出た。
男は懐から財布を出して、遠目からでもわかるぐらいの大金を彩芽に渡し、肩を抱いてホテルの中へ入ろうとしていた。
足が止まった。
足だけじゃない、体全体が凍り付くように静止する。嫌な予感がじわじわとつま先から登ってくるように、蓮の全身を覆っていた。
あの夜、公園で見つけたときと同じだった。ただ疑問だけが、頭の中でぐるぐると回っていた。なぜ、いつから、あの男は誰なのか。自分が今どんな顔をしているのかすらも、蓮にはわからなかった。
そのとき、彩芽がゆっくりとこちらを見た。意図してこちらを見た訳ではなく、なんとなく気になる方へ、目をやっただけのようだった。
蓮と目が合った。
一瞬、時間が止まった。彩芽の顔が変わった。きょとんとした顔ではなかった。笑った顔でもなかった。初めて見る顔だった。まずい、というような。
彩芽は肩を抱く男から逃げるように、大金を男に突き返し、走り出した。
「彩芽!」
蓮も走った。無理やり道路を渡ろうとしたため、車とぶつかりそうになり、クラクションを鳴らされたが、蓮には聞こえていなかった。まっすぐ彩芽が走った方へ向かい、通りを曲がって、また曲がった。でも彩芽は足が速かった。角を一つ曲がるたびに、姿が遠くなった。もう一度角を曲がったとき、もう誰もいなかった。
蓮は立ち止まって、息を整えた。
夜の路地に、自分の呼吸の音だけが聞こえた。
しばらく歩き回った。公園も、スーパーの中も、川沿いも、もう一度回った。桜はもう散り始めていて、花びらが風に吹かれ、街灯の下をゆっくりと流れていった。
夜の空気は、少し花の匂いがした。
彩芽は、どこにもいなかった。
その夜、蓮は部屋に帰った。
電気をつけると、いつもと同じ部屋があった。
テーブルの上に、スーパーの袋が置いたままだった。蓮はそれをしばらく見てから、袋ごと、台所の端に片付けた。すぐに捨てることは、できなかった。
蓮はソファに座った。立ち上がる気になれなかった。
彩芽のコップがまだ洗い場にあった。昨日の夜、麦茶を飲んだやつだ。蓮はそれを見て、しばらく目をそらせなかった。それからゆっくり、目をそらした。
彩芽があの時、男と何をしようとしていたのか。蓮にはわかっていた。わかろうとしたくなかっただけで、その時の状況がもう答えを出していた。場所は歓楽街で、若い女の子と、スーツの男。そしてあの大金。
蓮は彩芽と出会ったばかりの時を思い出していた。あの時は4月の始め頃で、もし彩芽が高校を卒業後にすぐにこの街に来ていたのであれば、3月から4月までの一か月間、彩芽はどう過ごしていたのだろうか。
恐らく、彩芽は体を売っていたか、何かそれに近い方法で金銭面のやりくりをしていたのではないか。
それだけじゃない、と蓮は思った。
高校を卒業したばかりの女の子が一人で家を出たという事実。
蓮の部屋に来てからも、彩芽は苦しかったのかもしれない。プリンを受け取るときの、どんな顔をしていいかわからないような顔。「もう少しだけ」と言った後の顔。笑いながらも、どこか遠いところにいるような、あの顔。
彩芽はずっと、何かに怯えていた。
蓮はそれに気づいていた。気づいていたのに、何もしなかった。踏み込めなかった。踏み込んだら壊れると思ったのか。でもそれは、言い訳にしかならなかった。
彩芽が「帰る家はない」と言ったあの夜のことを、蓮は思い出した。
――じゃあ、しばらくうちにいる?
あのとき自分でも驚いた。本当はそれ以上のことを、どこかで思っていたのかもしれない。帰る家がないというなら、ここをそういう場所にしてしまえばいいと。
でも蓮は、彩芽にそれを伝えなかった。
言葉にしなかった。ちゃんとお家に帰ってもらうからね、なんて言葉で、どこかに逃げ道を作ったまま、彩芽と過ごしていた。
おかえり、と言ってくれた夜が何度もあった。あの声が、今もまだ耳の奥に残っていた。
ちゃんと言えばよかった。ここにいていい、と。ここがあなたの帰る場所でいいんだよ、と。
言葉にするのが怖かった。渡したものを受け取ってもらえなかったとき、自分がどうなるのか、想像したくなかった。
部屋の中は静かで、以前はこういう静けさが、普通だった。でも今は違った。この静けさが、どういうものか、前よりもよくわかっていた。何かが欠けているというのは、それがなくなって初めてわかる。
暖房の温かい空気だけが、部屋の中をぐるぐると回って、誰も帰ってこない部屋を、温め続けていた。
蓮はソファの背もたれに体を預けて、天井を見た。
彩芽はあの後、どこへ行ったのだろう。また誰かに体を売って、それで今夜をやり過ごすのだろうか。
考えたくなかったのに、次々と浮かんでくる。
彩芽がこの街に来る前のことも、想像していた。どんな家だったのか。どんな夜を過ごしてきたのか。あの静かな綺麗な所作や、食事のたびに手を合わせる仕草は、どこで身につけたのか。誰かに教わったのか。それとも、誰も見ていない場所で、一人で続けてきたのか。
聞けばよかった。でも、知ってしまうのが怖かった。知ったら、どうすればいいかわからなくなると思っていた。
しかしそれは、自分の為の怖さで、彩芽の為じゃなかった。
「ごめん……」
気づいたら口から漏れていた。
「ごめん……ごめんね……彩芽……」
彩芽が感じていた孤独を、蓮は今更になって理解していた。わかっていたのに、手を伸ばし切れなかった。差し出しながら、ちゃんと渡せていなかった。受け取ってほしかったのに、受け取る方法を彩芽が知らないことに、気づいていながら、何もできなかった。
蓮の言葉は、誰に届くわけもなく、煙草の煙のように空中で霧散していった。




