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形のない思想  作者: takenoko


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3/5

三話

 その日、蓮はいつもより少し早く仕事が終わった。

 帰り道、コンビニの前を通ったとき、彩芽が好きそうなプリンの新しい味が出ているのが目に入った。少し足を止めてから、買って帰ろうと思い、入った。プリンを手に取りながら、彩芽、喜ぶかなと、蓮は口の端が緩くなるのを感じていた。

 「ただいまー……彩芽?」

 玄関のドアを開けると、部屋の中が暗かった。電気がついていなかった。

 彩芽、と何度か声をかけても、返事は帰って来なかった。洗面所をのぞいても、人の気配はなく、リュックもなかった。

 スーパーの袋を、テーブルの上に置いた。置いてから、その行為がひどく間抜けに思えた。

 蓮はしばらく部屋の真ん中に立っていた。

 出かけているだけかもしれない。そう思おうとした。でも、リュックごとなくなっているのが引っかかる。彩芽は、いつも買い物に行くときは、財布だけ持っていたが、リュックを持って出ることはなかった。それに、メモ一枚も何もテーブルの上に置いていなかった。

 蓮はダウンコートを脱がずに、もう一度外へ出た。足取りは焦るように、早かった。

 あてもなく、彩芽がいそうな場所を歩いた。コンビニの前の公園。スーパーの中。川沿いの道。

 商店街の方へ向かうと、夜でも人通りがあって、明かりがあった。でも通りの横の路地にはその明るさは届いていなかった。薄暗いその路地の先は、あまり良い噂を聞かない歓楽街に続いている。蓮は一抹の不安を覚えながら、路地へと入って行った。

 細い路地道を抜けると、道路を挟んだ向かい側に歩いている人影が見えた。

 彩芽だった。

 隣に、見知らぬ男がいた。歳は蓮や彩芽と比べると大分上だろうか。男はスーツ姿で、二人の距離が近く、彩芽と男の雰囲気は男女の雰囲気のそれだった。しかし本物ではない気がした。その違和感がなんだったのか、すぐに答えは出た。

 男は懐から財布を出して、遠目からでもわかるぐらいの大金を彩芽に渡し、肩を抱いてホテルの中へ入ろうとしていた。

 足が止まった。

 足だけじゃない、体全体が凍り付くように静止する。嫌な予感がじわじわとつま先から登ってくるように、蓮の全身を覆っていた。

 あの夜、公園で見つけたときと同じだった。ただ疑問だけが、頭の中でぐるぐると回っていた。なぜ、いつから、あの男は誰なのか。自分が今どんな顔をしているのかすらも、蓮にはわからなかった。

 そのとき、彩芽がゆっくりとこちらを見た。意図してこちらを見た訳ではなく、なんとなく気になる方へ、目をやっただけのようだった。

 蓮と目が合った。

 一瞬、時間が止まった。彩芽の顔が変わった。きょとんとした顔ではなかった。笑った顔でもなかった。初めて見る顔だった。まずい、というような。

 彩芽は肩を抱く男から逃げるように、大金を男に突き返し、走り出した。

「彩芽!」

 蓮も走った。無理やり道路を渡ろうとしたため、車とぶつかりそうになり、クラクションを鳴らされたが、蓮には聞こえていなかった。まっすぐ彩芽が走った方へ向かい、通りを曲がって、また曲がった。でも彩芽は足が速かった。角を一つ曲がるたびに、姿が遠くなった。もう一度角を曲がったとき、もう誰もいなかった。

 蓮は立ち止まって、息を整えた。

 夜の路地に、自分の呼吸の音だけが聞こえた。

 しばらく歩き回った。公園も、スーパーの中も、川沿いも、もう一度回った。桜はもう散り始めていて、花びらが風に吹かれ、街灯の下をゆっくりと流れていった。

 夜の空気は、少し花の匂いがした。

 彩芽は、どこにもいなかった。


 その夜、蓮は部屋に帰った。

 電気をつけると、いつもと同じ部屋があった。

 テーブルの上に、スーパーの袋が置いたままだった。蓮はそれをしばらく見てから、袋ごと、台所の端に片付けた。すぐに捨てることは、できなかった。

 蓮はソファに座った。立ち上がる気になれなかった。

 彩芽のコップがまだ洗い場にあった。昨日の夜、麦茶を飲んだやつだ。蓮はそれを見て、しばらく目をそらせなかった。それからゆっくり、目をそらした。

 彩芽があの時、男と何をしようとしていたのか。蓮にはわかっていた。わかろうとしたくなかっただけで、その時の状況がもう答えを出していた。場所は歓楽街で、若い女の子と、スーツの男。そしてあの大金。

 蓮は彩芽と出会ったばかりの時を思い出していた。あの時は4月の始め頃で、もし彩芽が高校を卒業後にすぐにこの街に来ていたのであれば、3月から4月までの一か月間、彩芽はどう過ごしていたのだろうか。

 恐らく、彩芽は体を売っていたか、何かそれに近い方法で金銭面のやりくりをしていたのではないか。

 それだけじゃない、と蓮は思った。

 高校を卒業したばかりの女の子が一人で家を出たという事実。

 蓮の部屋に来てからも、彩芽は苦しかったのかもしれない。プリンを受け取るときの、どんな顔をしていいかわからないような顔。「もう少しだけ」と言った後の顔。笑いながらも、どこか遠いところにいるような、あの顔。

 彩芽はずっと、何かに怯えていた。

 蓮はそれに気づいていた。気づいていたのに、何もしなかった。踏み込めなかった。踏み込んだら壊れると思ったのか。でもそれは、言い訳にしかならなかった。


 彩芽が「帰る家はない」と言ったあの夜のことを、蓮は思い出した。

 ――じゃあ、しばらくうちにいる?

 あのとき自分でも驚いた。本当はそれ以上のことを、どこかで思っていたのかもしれない。帰る家がないというなら、ここをそういう場所にしてしまえばいいと。

 でも蓮は、彩芽にそれを伝えなかった。

 言葉にしなかった。ちゃんとお家に帰ってもらうからね、なんて言葉で、どこかに逃げ道を作ったまま、彩芽と過ごしていた。

 おかえり、と言ってくれた夜が何度もあった。あの声が、今もまだ耳の奥に残っていた。

 ちゃんと言えばよかった。ここにいていい、と。ここがあなたの帰る場所でいいんだよ、と。

 言葉にするのが怖かった。渡したものを受け取ってもらえなかったとき、自分がどうなるのか、想像したくなかった。

 部屋の中は静かで、以前はこういう静けさが、普通だった。でも今は違った。この静けさが、どういうものか、前よりもよくわかっていた。何かが欠けているというのは、それがなくなって初めてわかる。

 暖房の温かい空気だけが、部屋の中をぐるぐると回って、誰も帰ってこない部屋を、温め続けていた。

 蓮はソファの背もたれに体を預けて、天井を見た。

 彩芽はあの後、どこへ行ったのだろう。また誰かに体を売って、それで今夜をやり過ごすのだろうか。

 考えたくなかったのに、次々と浮かんでくる。

 彩芽がこの街に来る前のことも、想像していた。どんな家だったのか。どんな夜を過ごしてきたのか。あの静かな綺麗な所作や、食事のたびに手を合わせる仕草は、どこで身につけたのか。誰かに教わったのか。それとも、誰も見ていない場所で、一人で続けてきたのか。

 聞けばよかった。でも、知ってしまうのが怖かった。知ったら、どうすればいいかわからなくなると思っていた。

 しかしそれは、自分の為の怖さで、彩芽の為じゃなかった。

「ごめん……」

 気づいたら口から漏れていた。

「ごめん……ごめんね……彩芽……」

 彩芽が感じていた孤独を、蓮は今更になって理解していた。わかっていたのに、手を伸ばし切れなかった。差し出しながら、ちゃんと渡せていなかった。受け取ってほしかったのに、受け取る方法を彩芽が知らないことに、気づいていながら、何もできなかった。

 蓮の言葉は、誰に届くわけもなく、煙草の煙のように空中で霧散していった。

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