二話
彩芽が来てから、蓮の部屋は変わった。
音が増えた。台所で水が流れる音、テレビの音量がいつもより少し大きい音、誰かが寝返りを打つ気配。そういう自分以外の他人の音が、当たり前のように部屋の中にあった。以前はそれがなくて、何もないことが、普通だった。
蓮が仕事から帰ると、既に暖房の空気はついていて、食事の準備をしている彩芽がいた。ドアを開けて、台所の方から何かの匂いがすると、蓮は足が軽くなるのを感じた。
彩芽の料理は、丁寧だった。特別なものを作るわけではなく、出てきたものは、味噌汁と、白いご飯と、炒め物や煮物。でも包丁の音が揃っていて、鍋の火加減がいつも落ち着いていて、台所が散らかっていることがなかった。どこで覚えたのだろうか、と蓮は一度だけ思ったが、あえて聞くことはしなかった。
ある夜、仕事で帰りが遅くなった蓮を、彩芽はずっと起きて待ってくれていた。
「遅くなってごめん、先に食べてよかったのに」
蓮が言うと、彩芽は少し間を置いて、 「……その、一緒に食べたかったので」とだけ言った。
蓮はそれ以上何も言わず、ゆっくり椅子を引いて座った。温め直されたスープを飲みながら、蓮はなんとなく泣きそうな気分になった。
彩芽は全くと言っていいほど、外に出なかった。
最初の頃、蓮は聞こうとしたことがあった。外に出ないのかと。
でもじっと窓の外をみている彩芽を見ると、聞くことができなかった。
一緒に出かけるときは、蓮が仕事から帰った後、近くのスーパーやコンビニへ行くくらいだった。
彩芽は買い物の間も静かで、蓮が手に取ったものをじっと見たり、棚の前で少し立ち止まったりしていた。何が食べたいか聞くと、たいていは「なんでも大丈夫です」と返ってきた。
でも蓮は、少しずつわかってきていた。
卵を手に取ると、そっとカゴを覗いてくること。お菓子のコーナーを通り過ぎれば、プリンに目がつられていること。ちゃんと好きなものがある。次の日、試しにプリンを二つ、自分と彩芽の分を買って帰ると、彩芽は少しだけ目を丸くした。
「一緒に食べない?」と差し出すと、彩芽は「……ありがとうございます」とだけ言って、受け取った。
その夜、テレビを見ながら、彩芽とプリンを食べた。
蓮はすぐに食べきってしまったが、彩芽はゆっくりと食べていた。
笑うことが多くなっていったのも、気付いたらだった。
テレビでお笑いをやっているとき、蓮が笑うと、少し遅れて彩芽も笑った。最初はくすっと小さく笑うだけだったが、そのうち声が出るようになった。蓮が変なことを言うと、呆れたように笑うこともあった。その顔を見るたびに、温かくなる感じがした。胸の内からぽかぽかと温かくなる感じだった。彩芽が笑うと、部屋の空気が違う色になった気がした。
ある日の夜、蓮は煙草をコンビニに買いに行った。彩芽はついてこなかった。戻ってくると、彩芽は台所の流しで食器を洗っていた。背中に向かって「ただいま」と言うと、彩芽は振り返って、「おかえり」とだけ言った。
それだけのことだった。でも蓮は玄関で少しの間、靴を脱ぎながら、その言葉を反芻していた。おかえり、という言葉が、こんなにも柔らかく聞こえたのは、いつ以来だろうか。
桜が咲き始めたのは、彩芽が来てから少し経った頃だった。
その日も二人でスーパーへ向かっていたが、蓮は、いつもと違う道を選んだ。
「少し遠回りになっちゃうんだけど、良い?」
彩芽は返事をせず、ただ小さく頷いて、蓮の半歩後ろをついてきた。
川沿いの道に出て、曲がり角を抜けたとたん、桜の木が並んでいるのが見えた。街灯に照らされた花が、夜の中でぼうっと白く浮かんでいた。満開だった。枝の先々まで、小さな花びらが咲き誇っていた。
「わあ」
彩芽が小さく声を上げた。蓮の少し後ろで、ふと足を止めて、見上げていた。
「きれい」
「でしょ」
蓮も見上げた。川沿いに並ぶ街灯の光が、花びらを白く浮かび上がらせていた。花の真下に立つと、見上げた視界いっぱいに枝が広がって、空がほとんど見えなかった。夜の空気は冷たかったが、春の匂いがした。土と花が混じったような、柔らかい匂いだった。
風が吹くと、枝がゆるく揺れて、花びらが二、三枚、ひらひらと落ちた。
彩芽はそれを目で追った。落ちきるまで、ずっと見ていた。
蓮はその横顔を、視界の端で見ていた。見上げる彩芽の顔が、街灯の光に白く照らされていた。ふだんは何かをこらえているような静けさがあるのに、今だけは、少し違った。
「桜、好き?」
少し間があって、彩芽は答えた。
「……うん。でも、なんか、少し怖い気もする」
「怖い?」
蓮は思わず聞き返した。彩芽は視線を花の方へ向けたまま、少し考えるように間を置いてから、静かに続けた。
「散るのが、早いから」
「……そっか」
蓮はそれ以上何も言わなかった。うまく返す言葉が出てこなかった。
二人でしばらく、桜を見ていた。通り過ぎる人もいたが、気にならなかった。風が吹くたびに花びらが落ちて、川面に触れて、流れていった。水の音がしていた。
彩芽はずっと上を向いていた。ときどき、落ちてくる花びらを目で追って、それが見えなくなると、また枝の方へ視線を戻した。その横顔は、いつかの夜、ドーム状の遊具の中で見た顔と、少し重なった。あの時と同じように、半分だけ光の中にいた。
セーラー服姿のまま丸まっていた、あの夜の彩芽。今は制服ではなくなったけれど、どこか似たものが、まだこの子の中に残っているような気がした。
「……帰ろっか」
「……うん、でも、もう少しだけ、見てちゃダメ?」
珍しく、彩芽の方から言った。
蓮は少し驚いた。いつも「なんでも大丈夫です」と言う彩芽が「もっとこうしたい」と自分から言うのを、初めて聞いた気がした。
蓮は何も言わず、また桜を見上げた。
風がまた来て、今度は少し多くの花びらが舞った。彩芽はそれを最後まで見届けてから、小さく息を吐いた。
その吐息が、夜の空気の中で白く見えた。
「ねぇ、今日は夜だけど、また昼間に見に来ようよ」
蓮が言うと、彩芽は少しの間、黙っていた。
それから、小さく「うん」と言った。
帰り道、彩芽は蓮の少し後ろをついてきた。街灯が作る影が、前へ前へと伸びていた。蓮はその影を踏みながら、次に昼の桜を見に来るとき、何を話そうかと、考えていた。




