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形のない思想  作者: takenoko


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2/5

二話

 彩芽が来てから、蓮の部屋は変わった。

 音が増えた。台所で水が流れる音、テレビの音量がいつもより少し大きい音、誰かが寝返りを打つ気配。そういう自分以外の他人の音が、当たり前のように部屋の中にあった。以前はそれがなくて、何もないことが、普通だった。

 蓮が仕事から帰ると、既に暖房の空気はついていて、食事の準備をしている彩芽がいた。ドアを開けて、台所の方から何かの匂いがすると、蓮は足が軽くなるのを感じた。

 彩芽の料理は、丁寧だった。特別なものを作るわけではなく、出てきたものは、味噌汁と、白いご飯と、炒め物や煮物。でも包丁の音が揃っていて、鍋の火加減がいつも落ち着いていて、台所が散らかっていることがなかった。どこで覚えたのだろうか、と蓮は一度だけ思ったが、あえて聞くことはしなかった。

 ある夜、仕事で帰りが遅くなった蓮を、彩芽はずっと起きて待ってくれていた。

「遅くなってごめん、先に食べてよかったのに」

 蓮が言うと、彩芽は少し間を置いて、 「……その、一緒に食べたかったので」とだけ言った。

 蓮はそれ以上何も言わず、ゆっくり椅子を引いて座った。温め直されたスープを飲みながら、蓮はなんとなく泣きそうな気分になった。


 彩芽は全くと言っていいほど、外に出なかった。

 最初の頃、蓮は聞こうとしたことがあった。外に出ないのかと。

 でもじっと窓の外をみている彩芽を見ると、聞くことができなかった。

 一緒に出かけるときは、蓮が仕事から帰った後、近くのスーパーやコンビニへ行くくらいだった。

 彩芽は買い物の間も静かで、蓮が手に取ったものをじっと見たり、棚の前で少し立ち止まったりしていた。何が食べたいか聞くと、たいていは「なんでも大丈夫です」と返ってきた。

 でも蓮は、少しずつわかってきていた。

 卵を手に取ると、そっとカゴを覗いてくること。お菓子のコーナーを通り過ぎれば、プリンに目がつられていること。ちゃんと好きなものがある。次の日、試しにプリンを二つ、自分と彩芽の分を買って帰ると、彩芽は少しだけ目を丸くした。

「一緒に食べない?」と差し出すと、彩芽は「……ありがとうございます」とだけ言って、受け取った。

 その夜、テレビを見ながら、彩芽とプリンを食べた。

 蓮はすぐに食べきってしまったが、彩芽はゆっくりと食べていた。


 笑うことが多くなっていったのも、気付いたらだった。

 テレビでお笑いをやっているとき、蓮が笑うと、少し遅れて彩芽も笑った。最初はくすっと小さく笑うだけだったが、そのうち声が出るようになった。蓮が変なことを言うと、呆れたように笑うこともあった。その顔を見るたびに、温かくなる感じがした。胸の内からぽかぽかと温かくなる感じだった。彩芽が笑うと、部屋の空気が違う色になった気がした。

 ある日の夜、蓮は煙草をコンビニに買いに行った。彩芽はついてこなかった。戻ってくると、彩芽は台所の流しで食器を洗っていた。背中に向かって「ただいま」と言うと、彩芽は振り返って、「おかえり」とだけ言った。

 それだけのことだった。でも蓮は玄関で少しの間、靴を脱ぎながら、その言葉を反芻していた。おかえり、という言葉が、こんなにも柔らかく聞こえたのは、いつ以来だろうか。


 桜が咲き始めたのは、彩芽が来てから少し経った頃だった。

 その日も二人でスーパーへ向かっていたが、蓮は、いつもと違う道を選んだ。

「少し遠回りになっちゃうんだけど、良い?」

 彩芽は返事をせず、ただ小さく頷いて、蓮の半歩後ろをついてきた。

 川沿いの道に出て、曲がり角を抜けたとたん、桜の木が並んでいるのが見えた。街灯に照らされた花が、夜の中でぼうっと白く浮かんでいた。満開だった。枝の先々まで、小さな花びらが咲き誇っていた。

「わあ」

 彩芽が小さく声を上げた。蓮の少し後ろで、ふと足を止めて、見上げていた。

「きれい」

「でしょ」

 蓮も見上げた。川沿いに並ぶ街灯の光が、花びらを白く浮かび上がらせていた。花の真下に立つと、見上げた視界いっぱいに枝が広がって、空がほとんど見えなかった。夜の空気は冷たかったが、春の匂いがした。土と花が混じったような、柔らかい匂いだった。

 風が吹くと、枝がゆるく揺れて、花びらが二、三枚、ひらひらと落ちた。

 彩芽はそれを目で追った。落ちきるまで、ずっと見ていた。

 蓮はその横顔を、視界の端で見ていた。見上げる彩芽の顔が、街灯の光に白く照らされていた。ふだんは何かをこらえているような静けさがあるのに、今だけは、少し違った。

「桜、好き?」

 少し間があって、彩芽は答えた。

「……うん。でも、なんか、少し怖い気もする」

「怖い?」

 蓮は思わず聞き返した。彩芽は視線を花の方へ向けたまま、少し考えるように間を置いてから、静かに続けた。

「散るのが、早いから」

「……そっか」

 蓮はそれ以上何も言わなかった。うまく返す言葉が出てこなかった。

 二人でしばらく、桜を見ていた。通り過ぎる人もいたが、気にならなかった。風が吹くたびに花びらが落ちて、川面に触れて、流れていった。水の音がしていた。

 彩芽はずっと上を向いていた。ときどき、落ちてくる花びらを目で追って、それが見えなくなると、また枝の方へ視線を戻した。その横顔は、いつかの夜、ドーム状の遊具の中で見た顔と、少し重なった。あの時と同じように、半分だけ光の中にいた。

 セーラー服姿のまま丸まっていた、あの夜の彩芽。今は制服ではなくなったけれど、どこか似たものが、まだこの子の中に残っているような気がした。

「……帰ろっか」

「……うん、でも、もう少しだけ、見てちゃダメ?」

 珍しく、彩芽の方から言った。

 蓮は少し驚いた。いつも「なんでも大丈夫です」と言う彩芽が「もっとこうしたい」と自分から言うのを、初めて聞いた気がした。

 蓮は何も言わず、また桜を見上げた。

 風がまた来て、今度は少し多くの花びらが舞った。彩芽はそれを最後まで見届けてから、小さく息を吐いた。

 その吐息が、夜の空気の中で白く見えた。

「ねぇ、今日は夜だけど、また昼間に見に来ようよ」

 蓮が言うと、彩芽は少しの間、黙っていた。

 それから、小さく「うん」と言った。

 帰り道、彩芽は蓮の少し後ろをついてきた。街灯が作る影が、前へ前へと伸びていた。蓮はその影を踏みながら、次に昼の桜を見に来るとき、何を話そうかと、考えていた。

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