一話
萩原蓮が煙草が切れていることに気づいたのは、帰宅して一息ついた後だった。
シャワーを浴びて、濡れた髪をドライヤーで乾かし、暖房をつけて、ようやくソファに座り込んだところだった。今日一日の疲れが、ゆっくりと体の底に沈んでいくような感覚があった。このまま動かなくていいなら、どれだけよかったか。
でも、煙草がなかった。 ジャケットのポケット、テーブルの上、引き出しの中。どこにもなかった。
暖房が効いたこの部屋から、またあの寒空の下へ出歩かなければならないことに、蓮は心底うんざりした。でも一人暮らしの部屋というのは、何もしなければ何もない場所だった。誰かが話しかけてくるわけでも、誰かの気配がするわけでもない。そんな静けさの中にいると、自分という存在が少しずつ薄くなっていくような気がした。煙草の煙は、そういう感覚を少しだけ紛らわせてくれる。肺の中に入って、白く出てきて、ゆっくり消えていく。それを見ていると、なんとなく、自分がここにいる気がした。
重い腰を上げて、ダウンコートを着た。靴を履いて、ドアノブに手をかけた。
冷たかった。外の空気で冷やされたドアノブの冷たさに、思わず身震いした。金属というのは、どうしてこんなに正直に外の温度を伝えてくるのだろう。
ドアを開けた瞬間に、冷たい風が吹き込んできた。顔に当たって、手に当たって、暖房で温まっていた体の表面を一瞬で剥がしていった。
以前見た映画が頭の中で思い浮かんだ。温暖化の影響で地球の上側が氷漬けになる話で、ニューヨークの街がガチガチに凍り付いていた。あの映画の登場人物たちも、こんな感覚だったのだろうか。いや、あれはもっと極端だったか。
――暖房の空気が、犬の散歩みたいについてきてくれたらいいのに。
蓮のそんな願いはかなえられず、部屋の温度は外の冷たい大気に霧散して、逃げていった。ドアを閉めると、鍵の音だけが夜の静かな廊下に響いた。自分の足音だけが聞こえた。
コンビニの自動ドアが開いた瞬間に、温かい空気が迎えてきて、逃げていった部屋の温度が、帰ってきたみたいだった。入口近くの揚げ物の匂いがして、知らない曲が流れていた。煙草以外に買うものはなかったが、カチカチに凍り付くように冷えた体を、もう少しだけここで温めたいと思い、蓮はゆっくりと店内を歩いた。
雑誌、飲み物、お菓子のコーナー。いくつか手に取りかけて、戻した。ほしいものは、何もなかった。
「140番ください」
レジへ向かって、煙草の番号を伝えると、店員が振り返って、棚から煙草を取り出した。会計を済ませて、外へと向かう。自動ドアが開くと、また外の空気が来た。一度温まった体には、さっきより少し、堪える。
コンビニの外に備え付けられた喫煙所へ向かい、煙草に火をつけて、一口吸った。肺の中に入って、吐き出すと、煙が出た。白くて、細くて、すぐに夜の空気に溶けていった。蓮はそれをぼんやりと眺めていた。
吸い終われば、灰皿に煙草を押し付けて、もみ消す。帰ろうと思って、歩き出したが、来た道を戻る気になれなくて、少しだけ遠回りをした。
そのとき、公園が目に入った。街灯が一本だけ立っていて、そのぼんやりした光の中に、遊具の影が見えた。蓮は少し足を止めてから、ふらっと中に入っていく。
滑り台。ブランコ。砂場。どれも懐かしかった。こういう公園が、幼い頃の行動範囲の中にあった。放課後、誰かと来ることもあったし、一人で来ることもあった気がする。
そのとき、別のものが目に入った。
「うっわ、懐かしー」
思わず声が出た。
コンクリートで作られた、ドーム状の遊具だった。丸くて、側面に穴がいくつか開いていて、中に入れるようになっている。最近はあまり見なくなった形だ。
子どもの頃、この形の遊具でよく遊んだことを思い出した。中に入ると、外から見えなくて、ちょっとした隠れ家みたいなのだ。友達と中で丸くなって、クスクスと笑った記憶が蘇る。あの頃はあの中が、自分たちだけの場所に思えた。
蓮は、ペタペタと遊具の表面を触りながら、周りをぐるっと回る。コンクリートは冷たくて、さっきコンビニで温まった手が、また少しずつ冷えていった。
ちょっと中に入ってみようか。大人が入っていいものかどうか、一瞬考えた。でも夜の公園に他に人はいないし、誰かに見られているわけでもない。幼少期の記憶に後押しされながら、穴の中をのぞいた。
しかし、そこには、先約がいた。
女の子だった。
膝を抱えて、丸くなっていて、その子は人の気配を感じたのか、ゆっくりと顔を上げる。蓮と目が合った。
女の子は大人びた整った顔立ちをしていて、こちらを見るその顔はきょとんとしていた。綺麗な黒髪がすらっと垂れて、セーラー服の襟にかかっている。ここら辺じゃ見ない学校の制服ということが一目でわかった。女の子は、蓮が覗いた穴から差し込む街灯の光に照らされていた。
夜の公園に制服の女の子。
少し非現実的な雰囲気が、そのまわりを漂っていた。
二人とも、しばらく動かなかった。夜の公園に、街灯の音だけがしていた。
女の子はゆっくりと口を開き、凝結された白い空気を吐き出しながら、静寂を破った。
「……お姉さん、なにしてるの?」
「えっ?あー……」
それはこちらのセリフだった。夜の公園に、隠れるように、遊具の中で体操座りをしている。明らかに訳ありそうだということは、目に見えてわかった。制服を着ているということは学生だろう。学生がこんな時間に、ここにいる理由が、蓮にはすぐに思いつかなかった。親は心配してないのか。家には帰らないのか。そんな疑問がぐるぐると頭の中をめぐった。何から聞けばいいかわからなかったし、聞き方を間違えたら、この子が怖がってしまう気がした。
蓮は女の子の問いに答えることができず、目の所在がなかった。
女の子はそんな挙動不審な蓮の姿に、だんだんと警戒心を強めてきたのか、両膝を抱え込む手に力がこもり始めていた。
その時、ぐーっと音がした。
お腹が鳴る音だった。ドーム状の遊具の中だったため、よく響いた。蓮の腹が鳴らしたのではない。
それならば、と蓮はまっすぐに女の子を見た。
女の子はうつむいて、音の発生源を隠すように身を縮こませていた。垂れ下がる髪の隙間から除く耳が赤くなっていた。寒いからなのか。今の音を聞かれたことが恥ずかしかったからなのか。おそらく、両方だろうと蓮は思った。
蓮は、ふっと笑った。
「ねぇ私、晩ごはんこれからなんだけど……」
女の子は、「ごはん」という言葉にはっとこちらを見た。さっきまで縮こまっていた体が、わずかに前のめりになった気がした。まるで「ごはんよ」と言われて、すぐにこちらに走ってくる犬のようだった。いや、犬というのは流石に失礼か。
この先の言葉を待つ女の子の顔に、かすかに期待の色があった。蓮はそれに応えるように、続けた。
「一緒に食べる?」
女の子はすぐには答えなかった。少しの間、何かを確かめるように、蓮の顔を見ていた。
しばらくして、女の子は小さく頷いた。
「ご飯作るから、その間シャワー浴びてきて良いからね」
家について、ダウンコートをかけながら女の子に言う。
何時からあの夜の公園にいたのかわからないが、4月の夜はまだ寒い。アウターを着ていた蓮でも身を震わせていたのだ。セーラー服だけしか着ていない彼女の体はさぞ冷えているだろう。それにその子は、言葉を選ばず言うと、身なりは綺麗だったが、やはりところどころ薄汚かった。どこかで夜を明かしたのか、それとも今夜が初めてなのか。
「……」
その子は、おずおずとローファーを脱ぎながら、蓮のその言葉に何も言わず、こくっと頷く。公園から家に向かう間も何も喋らなかった。大人しい子なのだろうか。それとも、言葉の使い方を忘れてしまったような夜を、この子はずっと過ごしてきたのだろうか。
「お風呂はそこの扉だから、荷物は適当に置いといて」
脱衣所につながるドアを指さすと、少女は蓮に小さく頭を下げて、玄関に大きめのリュックを置き、入っていく。リュックはサイズの割には軽そうだった。
「さて、なに作ろうかな……」
温かいものが良いだろう。でも冷蔵庫を見ても、大した食材はなかった。さっきのコンビニで何か買っておけば良かったと後悔する。仕方なく、適当な食材を手に取って、台所に向かう。シチューと、付け合わせで何か作ればいいだろう。
包丁を動かしながら、脱衣所の方からシャワーの音がしているのを、蓮はぼんやりと聞いていた。自分の家の中に、誰かがいる音だ。久しぶりに、部屋が自分以外の音で満たされていた。
「あの、シャワー、ありがとうございました」
ある程度、料理を作り終えたところで、女の子は脱衣所から出てきた。髪が濡れていて、それを手で押さえながら立っていた。蓮のタオルを借りたのだろう、少し大きそうに見えた。蓮は脱衣所の前から動かない女の子に微笑みかけて、こちらに来るように手を振る。
「作ってから聞くの、今更だけど、食べられないものとか無いよね?」
料理をお皿に盛って、丸机に置きながら聞くと、女の子は静かに頷く。
「良かった。ほら座って、あり合わせになっちゃったけど」
女の子は椅子に座って、机の上のシチューを見た。その顔が、ほんの少しだけ、ほぐれた気がした。蓮はそれを見ないふりをして、自分も椅子を引いた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
女の子は、ゆっくりと手を合わせて、食事の挨拶をした。今時、ちゃんと「いただきます」を言うなんて、と蓮は思いながら、つられるように手を合わせた。
食事は静かに進んでいった。食器と食器がぶつかるカチャカチャとした音だけが流れていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
女の子は、また静かな所作で食器を置いて、手を合わせた。食事の時も思ったが、女の子は細かい所作が綺麗だった。最初に大人びた雰囲気を感じたのは、そこが原因だったのかもしれない。それに、よく顔を見てみると、まだあどけなさが残っていた。整った顔立ちの中に、年齢よりも少し幼い表情が、ときどき顔を出していた。
「それで、何であの時間に一人でいたの?」
「……ッ」
食事を済ませて、少し心に余裕ができていると思い、蓮は恐らく女の子が答えづらいであろうことを聞いた。
女の子はびくっと肩を震わせて、下を向いた。やはり答えたくないのだろう。
「その……悪いけど、私も大人だからさ、やっぱりこういうのは警察とかに伝えなきゃ……」
「……やだ」
蓮の言葉を遮るように女の子は拒絶の言葉を漏らした。小さな声だったが、はっきりしていた。蓮はさらにそれに被せるように、今まで思っていた疑問を投げかける。
「やだって言われても、ほら親御さんとか、帰る家とか、あるでしょ?」
「……帰る家は、ない……から」
喉の奥から、絞り出すようにそう言う女の子を見て、蓮はやっぱり大分訳ありか、と思い、それ以上は聞かなかった。
さて、それならばどうしようか。こんな状態の女の子を警察に突き出しても、また結果は変わらないような気がした。かといって、見知らぬ子どもをそのまま夜の外へ返すのも、気が引けた。こんな寒い夜の下に、行く場所のない子を追い出せなかった。
悩む蓮の様子に、不安が浮き出てきたのか、女の子はさらに身を縮こませていた。その小さな姿を見ていると、何かが胸の奥でかすかに動いた。
「……じゃあ、しばらくうちにいる?」
「え……」
そんな状態の女の子を見ているうちに、蓮はついそんな言葉を漏らしてしまう。言ってから、少し驚いた。自分でもそう言うつもりはなかった。でも、言ってしまったからには、もう取り消す事もできない。
「でもあなたの気持ちが落ち着いたら、ちゃんとお家に帰ってもらうからね」
女の子は静かにこく、とうなずいた。その顔に、さっきまであった強張りが、少しだけ薄れていた。安堵なのか、それとも別の何かなのか、蓮にはわからなかった。
「それで、すごい今更なんだけど……」
おずおずと言う蓮に女の子はきょとんとした顔をする。
「お互いに自己紹介しない?」
女の子もはっとした顔をする。そう、蓮と少女はまだ互いに名前も知らないのだ。これから一緒に住むのであれば、さすがに名前ぐらい知っておきたい。
「えっと……彩芽です。"彩り"に新芽の"芽"です」
「彩芽ね。私は蓮。"蓮"の花で蓮。よろしくね」
彩芽は、少し逡巡した後、こちらに苗字は伝えなかった。教えたくないのか、それとも教えられないのか。どちらにしても、蓮は聞かなかった。それならば、こちらも名前だけ伝える方が、彼女もやりやすいだろう。
名前を呼ばれた彩芽は、小さく「よろしくお願いします」と言った。声は静かだったが、さっきより少し、はっきりしていた。
何はともあれ、蓮と彩芽の共同生活が始まった。




