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形のない思想  作者: takenoko


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五話

 彩芽がいなくなってから、何日が経ったのだろうか。蓮はあまり数えていなかった。数えてしまったら、それだけ遠くなる気がしたから。

 仕事は行った。ご飯も食べた。シャワーも浴びた。ただそれだけのことが、以前より少しだけ重くなっていた。

 部屋の中は静かで、そんな部屋に帰るたびに、玄関に立ったまま少し余分に時間がかかった。靴を脱ぐ前に、誰もいないとわかっているのに、台所の方をつい見てしまう。それに気づいてから、なるべく真っ直ぐ部屋の中へ入るようにしたが、うまくいかないことの方が多かった。

 気づいたら外を歩いていることが増えた。

 煙草を買いに行くわけでもなく、目的があるわけでもなく、ただ夜の街を歩いた。川沿いを歩くと、桜はもうほとんど散っていて、川沿いを歩くと、桜はもうほとんど散っていて、代わりに若い葉が枝の先から出始めていた。あの夜、彩芽と見上げた花が、もうどこにもなかった。葉の色は柔らかくて、それがかえって、寂しかった。

 帰り道を少し遠回りして、気づいたら、あの公園の前に来ていた。街灯が一本だけ立っていて、ぼんやりした光の中にドーム状の遊具の影が見えた。

 その中で、何かが動いたような気がした。

 蓮は足を止めた。自分でも気づかないうちに、ふらりと公園のゲートをくぐっていた。

 滑り台。ブランコ。砂場。夜の公園は静かで、風が吹くと、どこかで葉が揺れる音がした。

 それから、蓮の足はドーム状の遊具の前で止まって、ゆっくりと穴の中をのぞいた。

 そこには、いつかの日と同じように膝を抱えて、丸くなっている女の子がいた。俯いていたから、最初は気づかなかったかもしれない。でも人の気配を感じたのか、顔を上げると目が合った。

 彩芽だった。

 彩芽の顔が、強張った。逃げようとするように、体がわずかに動いた。蓮はそれを見て、何も言わなかった。ただ、穴の前にゆっくりとしゃがみこんだ。地面は冷たかった。もうタンスにしまったダウンコートを着てくればよかったと思った。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 じじっと電気が弾けるような、街灯の音だけがしていた。

 彩芽の目が赤かった。泣いていたのか、それとも寒さのせいなのか、蓮にはわからなかった。でも、その顔を見ていると、胸の奥で、がんじがらめに絡まっていたものがほぐれていく感じがした。

「……寒くなかった?」

 蓮は、微笑んで、それだけ言った。

 彩芽はすぐには答えなかった。少しの間、蓮の顔を見ていた。何かを確かめるように。蓮が怒っているかどうか。責めようとしているかどうか。

 蓮は、ただ、そこにいて、彩芽の言葉を待っていた。

「……寒かった」

 絞り出すような声だった。

「そっか」

 また、静かになって、遠くで車が通る音がした。

 彩芽が口を開いたのは、しばらく経ってからだった。

「……怒ってないの?」

 問いかけというより、確かめるような言い方だった。

「怒ってない」

「……なんで?」

 蓮は少し考えた。うまい言葉が出てくるわけじゃなかった。でも、正直に答えようと思った。

「んー……心配の方が強かったからかな」

 彩芽はその言葉を聞くと、目を開いた。

「どこにいるのかとか、寒くないかとか、ご飯食べてるかとか、そういうことばっかり考えてた……ちゃんとご飯食べてた?」

 彩芽の顔が、少しだけ歪んだ。笑おうとしたのか、泣きそうになったのか、どちらかわからなかった。

「……食べてない」

「そっか」

 蓮はそれ以上聞かなかった。なぜいなくなったのかも、あの夜のことも、何も聞かなかった。

 しばらく前に買ったまま渡せていなかったプリンのことを思い出した。あれはもう捨ててしまったから、新しいやつを、また買おう。

「帰ろっか」

 彩芽はじっと動かなかったが、蓮は急かさなかった。

 しばらくして、彩芽の声が聞こえた。今度は違う声だった。さっきより、少し低くて、震えていた。

「……蓮さん」

「うん」

「私、ずっと……」

 そこで声が途切れた。少しの間があって、また続いた。

「ずっと、どこかに帰りたかった。でも、どこに帰ればいいのかわからなくて……蓮さんの家にいるときも、ここにいていいのか、わからなくて……怖くて……」

 声が細くなっていった。続かなかった。でも蓮には、続きがなくてもわかった気がした。

 全部わかるとは言えなかった。彩芽が過ごしてきた夜のことを、蓮は何も知らない。踏み込むことができなかった。でも、今ここで、彩芽がその言葉を声に出したという、そのことだけは受け取れる気がした。

「彩芽」

「……」

 蓮はまっすぐ彩芽を見つめた。

「ここにいていいよ」

 彩芽は顔を上げた。

「うちが、彩芽の帰る場所でいい」

 言葉にするのが怖かった。受け取ってもらえなかったらと思うと、まだ怖かった。でも今度は、自分のための怖さのまま飲み込まないと決めていた。

 彩芽の目から、涙がこぼれた。音もなく、ただ静かにこぼれた。

 彩芽は何も言わなかった。でも、膝を抱えていた手が、ゆっくりとほどけた。

 蓮は立ち上がって、くしゃっと笑い、手を差し伸べた。

「お腹減ってるでしょ。一緒にご飯食べよ」

 彩芽は少しの間、その手を見ていた。

 それから、小さな手が、蓮の手に重なった。

 冷たかった。長い間、外にいたのだろう。蓮はその手を、少しだけ強く握った。

 二人で立ち上がって、公園を出た。

 歩き出してから、しばらくして、彩芽が小さく言った。

「……また、桜、見に行けますか」

 蓮は少し驚いて、それから、口の端が緩くなるのを感じた。

「今年のはもう散っちゃったね」

「……うん」

「だから来年、また見に行こう」

 彩芽は何も言わなかった。でも、繋いだ手が、わずかに力を込めてきた。

 蓮はそれを感じながら、前を向いて歩いた。

 いつか、ご飯を食べながら、彩芽のことも、自分のことも、少しずつ話せたらいいと思った。今までのことも、これからのことも。

 街灯の光が、前へ前へと、二人の影を伸ばしていった。

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