第08話【さわら】
「今日は養殖部から新鮮なさわらをいただきました♪」
いつものように上機嫌な怜の声が、部室に響く。
発泡スチロールの箱の中には、何匹もの魚が氷に包まれていた。
「さわらか。いいな」
「春を感じるっすね」
俺は酒を飲みながら、怜の出した冷奴をつまんでいる。
理心は珍しく姿勢を正し、紅茶とケーキを前にしながら読書に耽っていた。
「珍しいな、お前がそんなちゃんと座ってるの」
「さっきまでソファーで読んでたんすけど、怜さんに“お行儀よくどうぞ♪”って言われたんすよ」
「矯正されてるじゃねえか」
「文芸部の格式が上がってる気がするっす」
「そんなもん元から無いだろ」
「ひどいっす」
怜は氷に包まれたさわらを取り出しながら、にこやかに言う。
「お刺身でも、西京焼きでも美味しそうですよね♪」
「どっちもいいな」
「酒のことしか考えてない顔してるっす」
「美味い魚には酒だろ」
「知ってたっす」
こんこん。
控えめだが、確かに伝わるノック音に顔を上げる。
「珍しいっすね。ここに誰か来るなんて」
厨房の奥でさわらを捌いていた怜が、
「はい♪」
と応じて扉へ向かった。
「いやお前出ろよ」
「先生こそ、出るべきだったっす。怜さんをこき使いすぎっす」
「使ってるっていうか、何か頼む前に勝手に動いてるっていうか」
俺と理心が軽く言い合っているうちに、怜が扉を開けた。
「あ、部長♪」
「部長?」
入口に立っていたのは、どこかで見た少女だった。
改造制服に、給仕部のワッペン。怜と似たような服装だが、漂う空気は怜よりも幾分張りつめている。
酒造蔵で見たやつだ。
祇条灯火。
「誰っすか」
理心がマカロンにかじりつきながら横目で灯火を見る。
「可愛い人っすね」
それだけ言って、あまり興味なさそうに本へ視線を戻した。
灯火は特に気にした様子もなく、姿勢も崩さず言う。
「文芸部。その視察に来た」
「また面倒事の予感しかしねえな」
俺は静かに、缶に残ったビールを一気に呷った。
祇条灯火。
初めて酒造蔵で見た時から思っていたが、こいつはどうにも生徒らしくない。
俺や熊崎とほとんど対等に話すし、妙な圧がある。底の見えない感じがして、あまり落ち着かない。
「さわらか」
灯火は厨房を覗き込み、調理途中の魚を見て呟いた。
「怜、たまには我も手伝おう」
怜の顔がぱっと明るくなる。
「部長、いいんですか♪」
「我もたまには包丁を握らないと腕が錆びつくからな。それに、ちょうどいい」
「ちょうどいい?」
空いた缶を手に取る。
当然もう中身はなかったので、元の位置に戻した。
灯火はそのまま言う。
「ああ。熊崎先生の提案とはいえ、実績も活動内容も不明。部員も部長しかいない弱小部に、給仕部の派遣が本当に必要なのか」
そこで一度、俺の方を見た。
「その判断を下しに来た」
「シリアス展開っすか」
理心が本から顔も上げずに言った。
それはどっちに対してだ。現実か、本の方か。
灯火は何も答えず、冷蔵庫を開ける。
そして当然のように、俺の前へ未開封のビールを一本置いた。
「我は刺身を担当しよう。怜はそっちを」
「はい♪ さわらのバター焼きを作ります♪」
視察に来たはずの部長が、普通に厨房に立って刺身を引き始めた。
……なんなんだ、この部活は。
「さわらのバター焼きです♪」
「さわらの刺身だ。それとシンプルな塩焼き、さわらの唐揚げもある」
机の上に、さわら尽くしの料理が並ぶ。
刺身、塩焼き、唐揚げ、バター焼き。
同じ魚とは思えないくらい、見た目も香りも全部違っていた。
「からあげ?」
その単語に反応して、理心が本から顔を上げた。
俺の高級そうな机の上にも、理心がくつろいでいる高級そうなガラステーブルの上にも、同じ献立が並んでいる。
「見事なお点前っす」
「それを料理で言うか?」
「知らないっす」
つまらない軽口を叩き合いながら、俺たちは同時に箸を取った。
まずは刺身。
「うめぇ」
「美味しいっすね。さすが春の刺客」
「その単語はちょっと身構えちゃうから今はやめてね」
次は塩焼き。
ぱくりと一口。
「うめぇ」
「美味しいっす」
次に唐揚げ。
「うめぇ」
「美味しいっす」
最後にバター焼き。
「うめぇ」
「美味しいっす」
しばらく、さわらの余韻を噛みしめる。
「先生、語彙力ないっすね」
「お前も“美味しいっす”しか言ってねえだろ!」
かこん、と空いた缶が小気味いい音を立てた。
「酒が足らんな」
「飲みすぎっす」
「こんな贅沢なつまみが並んでるのに、飲まずにいられるか」
「普通はつまみじゃなくて、おかずって言うんすよ」
すかさず俺の手元には缶ビール。
理心の前には白米が届けられる。
「まだいっぱいありますから♪」
怜の完璧な給仕っぷりは相変わらずだった。
「ふむ」
難しそうな顔で、灯火が俺と理心を交互に見る。
「一体、この部活は何をしているんだ?」
核心に触れてきやがった。
何もしてません、すみません。
毎日お前の部下に酒とつまみを用意してもらってるだけです、ほんとすみません。
「なんもしてないっす」
あっけらかんと、白米とさわらを味わいながら理心が答える。
この正直者め。
「先生はビール飲んで、私は本を読んでるだけっすね」
ぱくぱくと目の前のおかずと白米を口に運びながら、理心が言う。
「それだけっすよ。ここは」
理心にだけ振る舞われた味噌汁にも、上品に口をつける。
食べる所作だけは妙に綺麗だった。
「つまり、何も学園の利益や宣伝になるような活動はしていないと」
「最初からそうっす。ここにそんなのは求めないでほしいっす」
珍しいな。理心がちょっと感情的になってる。
俺はビールを飲みながら、ちみちみと料理をつまみつつ、事の行く末を見守ることにした。
「なら、この部活がある意味はなんだ」
「知らないっす。そんなの学園側に聞いてほしいっす」
ちらりと灯火がこっちを見る。
やめろ。巻き込むな。
「なら」
ついに、灯火はそれを問う。
「なぜ、お前はここに通うんだ」
「……」
「私がここに来る理由っすか……」
飯を食う手をぴたりと止めて、理心が灯火を見る。
その目には、感情があるようで、ないようにも見えた。
「私は――」
「楽しいからです♪」
理心が口を開きかけた、その瞬間。
遮るように、怜が先に答えた。
「楽しい?」
「えぇ、とっても♪」
屈託のない微笑みを浮かべて、怜は俺と理心を交互に見る。
「先生はいつもお酒ばかり飲んでいます♪ 正直、教師としてどうかと思っています♪」
「おい」
「理心さんも本ばかり読んでいて、軽口くらいしかわたしと接してくれません」
「えぇ……」
「でも、お二人とも、わたしの作った料理を美味しそうに召し上がってくれて、ちゃんと、美味しいって、言ってくれるんです……」
「……」
灯火は何も言わない。
怜はそれでも、嬉しそうに笑った。
「わたし、この部室好きですよ♪」
「……そうか」
灯火が、満足そうに口元を緩めた。
初めて見るその笑顔は、年下の妹を思う姉のようにも見えた。
「お前が楽しいなら、部長として何も言えないな」
やれやれといったように手を振る。
その仕草は、どこか昔を思い出しているようにも見えた。
「しかし、それが本当に楽しいのか?」
「楽しいです♪」
「そうか……」
灯火は少しだけ視線を落とした。
怜は気にした様子もなく、いつもの柔らかい笑みを浮かべたままだった。
「いずれ、お二人ともっと仲良くなりたいと思っています♪」
「今はそれで十分です♪」
一瞬、しんと部室が静まる。
「……なんか、好意を真っ向からぶつけられると照れるっすね」
「それな」
ビールを呷る。
「まあ、いいんじゃねえの。青春っぽくて」
「おっさんが何言ってんすか」
「お兄さん、だろ?」
「おっさんっす」
俺と理心の他愛ないやり取りを、灯火がどこか複雑そうに見ていた。
「……楽しい、か」
「はい♪」
怜は迷いなく頷く。
怜、か。
おかしなやつだとは思っていたが、俺と理心のこんなやり取りを間近で見ていて、そういう感想が出るあたり、本当に変わり者なんだろうな。
「それでは我は戻る」
「部長、今日はわざわざありがとうございました♪」
「今後も定期的に監査には来させてもらう」
俺を見ながら言うな。怖い。
灯火が去って、ようやく部室にいつもの空気が戻る。
「行ったっすね」
「だな」
しかし、一年前は平和だったな。
ほとんど理心と二人きり。
酒を飲んで、軽く喋って、それで終わり。
今じゃ給仕部のおかげで余計な面倒事は増える一方だ。
部室は広くなり、もはや豪華な宿泊施設みたいな内装になり、毎日美味い飯が出てきて、可愛いメイドさんに給仕までされる。
……あれ?
そう並べてみると、そんなに悪くない気がしてきた。
「なんすか」
「いや、なんでもない」
理心もたぶん、似たようなことを少しは思ってるんだろう。
ただ、問題は多い。
人の出入りが増えれば、それだけ警戒しなきゃならんことも増える。
俺は、一年間同じ部室で過ごしてきた問題児を見る。
「なんすか」
こいつは何を考えてるのかわからん。
けど、純粋に今の環境の変化や平和を享受しよう、なんてことを思っていないのはわかる。
「なんでもねえって」
こいつを守る。
一年前にそう決めたことを思い出した。
難儀なことになりそうだ。
文芸部。
給仕部。
未だ正体不明の刺客。
理心、怜、灯火。
身の回りに増えたものを思い、俺は小さく嘆息した。
……全部を、守れるんだろうか。




