第13話【先生の好物・後半】
かこん。乾いた音が部室に響いた。高級そうな机に空き缶を置いた音。
「まだお飲みになりますか♪」
「なる。まだまだ足りん」
俺の目の前には好物の鯵の刺身、なめろう、サンガ焼き、鯵のたたきが並んでいる。 これを前にして飲まずにいられるか。
「飲み過ぎじゃないっすか」
「明智、先生はいつもこうなのか」
「あけ、あぁまぁそうっすね……ここまでテンション高いのは初めて見たっすけど」
「この間から見ていたが飲み過ぎだ。身体に障るぞ」
「好物を前にした酒は別腹なんだよ」
「酒に別腹は適用されないっす」
「初めて聞いたぞそんな理論」
「今作ったっすね」
「美味けりゃなんでもいいんだよ」
呆れたように言いながらも、理心はしっかりとなめろうを白米に乗せている。
あいつはあいつで、鯵をだいぶ満喫していた。
灯火は相変わらず姿勢よく座り、箸の動きも落ち着いている。
同じ料理を食っているはずなのに、どうしてこうもこっちは酒盛り感が強いのか。
「先生、お水もお持ちしますね♪」
「気が利くな怜」
怜はにこにこと笑いながら水の入ったグラスを置き、その横に新しい缶ビールまで添えた。
「お前、止める気あるのか?」
「お水も一緒なら少しは大丈夫かと♪」
「甘いっすよその判断」
「優しさが仇になってるな」
そんなことを言いつつ、俺の手はもう新しい缶へ伸びていた。
ぷし、と軽快な音がして、また一つ心が安らぐ。
「先生」
「なんだ」
「まじで飲み過ぎっす」
「今の俺はな、鯵への敬意を形にしているだけだ」
「酒で?」
「酒で」
「だめっすねこの人」
灯火が小さく嘆息した。
「怜、次からはもう少し量を控えろ」
「お料理ですか?」
「酒だ」
「かしこまりました♪」
たぶんかしこまっていない。
こいつはこの返事をしたあとも、俺の缶が空けば補充するに違いない。もうわかる。
刺身を一切れつまみ、口に運ぶ。
ほどよい歯ごたえと脂。そこへビールを流し込む。
たまらん。
次になめろう。
味噌と薬味の香りが一気に広がる。
そこへまた酒。
「……うまい」
「さっきからそれしか言ってないっす」
「語彙を失う美味さってあるんだよ」
「便利な言葉っすね」
サンガ焼きは焼けた味噌の香ばしさが前に出て、これまた酒が進む。
タタキは薬味が効いていて、刺身とはまた違う方向でうまい。
「先生、今日ほんとに機嫌いいですね♪」
「今日は世界が優しいからな」
「まだ言ってるっす」
「鯵の日は祝日にすべきだろ」
「どこの国の話っすか」
「俺の中の国」
「独裁国家っすね」
気づけば皿の上の鯵はだいぶ減っていた。
そして缶もまた一本、二本と空いていく。
かこん。
また乾いた音。
今度はさすがに少し頭がふわついた。
視界の端がゆるくなって、身体から力が抜けていく。
「……先生?」
「んー?」
「だいぶ危なそうっす」
「まだいける……鯵が……俺を呼んでる……」
「末期っす」
「呼んでませんよ♪」
怜が柔らかく訂正する。
だがその声がどこか遠かった。
「先生、お茶漬けもあります♪」
「食う……」
最後に出てきたのは、鯵の出汁茶漬けだった。
炙った身と、少しだけ残していたなめろう、それに熱い出汁。
湯気と一緒に立ち上る香りだけで、もううまい。
「! これ美味しいっす」
「締めまで完璧だな」
灯火まで少し感心したように言う。
俺は茶碗を受け取って、半ば夢中でかき込んだ。
熱い。うまい。染みる。危険だ。
酒でだるくなった身体に、鯵の旨味がじんわり広がる。
「……はぁ」
食い終えた瞬間、全身から一気に力が抜けた。
「満足したっすか」
「した……」
「じゃあ今日はもう終わりっすね」
「まだだ……鯵の余韻を……噛みしめさせろ……」
自分でも何を言っているのかわからん。
だが、とにかく眠かった。
立ち上がろうとしたが、少しふらつく。
このまま椅子で寝たら首が死ぬな、とだけぼんやり思った。
だからというわけでもないが、ふらっとベッドの方へ足が向いた。
増設されたこの高級そうな寝具を、まさかこんな形で活用する日が来るとは思わなかった。
「先生?」
「ちょっとだけ……横になる……」
「それ寝るやつっすよ」
「寝ない……ちょっと、鯵を反芻するだけだ……」
「絶対寝るやつっす」
ぼんやりした頭でされるがままになりながら、俺はベッドへ倒れ込む。
やわらかい。
終わった。
「先生、ちゃんと寮まで帰れるんすか」
「帰れる……俺を誰だと……」
「酒飲みでだらしなくて鯵に異様な情熱を燃やす教師っす」
「ちゃんと……送るから……」
「この状態じゃ無理そうっす」
「うるせぇ……」
笑い声がした気がする。
理心か、怜か、あるいは両方か。
そのまま、意識はゆっくり沈んでいった。
最後に思ったのは、やっぱり鯵は偉大だなって事だった。
***
ふと目を開けると、暗闇だった。
……あ、やらかした。
完全な寝落ちだった。
ぼんやりした頭のまま部室を見回す。よく見えないが、誰もいない。
そりゃそうだ。おそらく、とっくに寮の門限は過ぎている。
やべぇな。いくら好物とはいえ、はしゃぎすぎた。
頭は痛いし、喉は乾いたし、何より理心を送っていくこともできなかった。あいつ、無事に帰れたんだろうな。
……とりあえず便所だ、便所。
急激に自覚した尿意から解放されるため、起き上がってトイレに向かおうとした――。
「先生♪」
「ぎゃあああああああああ!!!」
暗闇の中で、怜が佇んでいた。
「あ、ごめんなさい♪ 電気つけますね♪」
怜は部室の入口へ駆け寄り、ぱちりと照明をつけた。
瞬間、室内がぱっと明るくなる。
「な、なんでいる!」
「先生の介護を♪」
「マージでビビった! ちびるかと思った! というかちびらなかった自分を褒めてやりたいね! そういうわけで俺はトイレだ!」
「ごゆっくり♪」
トイレに駆け込みながら、俺はようやく現実を飲み込んだ。
怜がいる。
夜の部室に。
なにしてんだこの子。
用を足しながら徐々に正気を取り戻していく。
顔を洗って部室へ戻ると、怜はさっきと同じ場所で立っていた。
「おかえりなさい♪」
「で、なんでいる」
「先生の介護を♪」
「なにがどうしてそうなった」
「先生、ぐっすりお休みになられていて、起こしても起きなかったので♪」
「それはわかる。自分でも驚くくらい寝てた」
ベッドに腰を下ろしながら辺りを見る。
机の上は綺麗に片づけられ、宴の跡は残っていなかった。
「他の二人は」
「理心さんは私と部長で寮まで送りました♪」
そりゃ助かる。
「で、なんでお前は戻ってきた」
「先生が心配でしたので♪」
「……そうか」
普通はそのまま自分も帰るだろ。そう思いつつもちょっとありがたかった。夜の校舎はちょっと怖い。
「お前、門限はどうした」
「給仕部なので♪」
もうなんでもその一言で解決できそうな便利な言葉だな。
「先生、お水飲みますか?」
「……飲む」
「かしこまりました♪」
すぐに冷蔵庫から冷えた水を取り出し、差し出してきた。
一気に半分ほど飲む。少しだけすっきりして、頭痛もいくらか落ち着いた。
「はぁ……生き返る」
「よかったです♪」
「で、お前は何してたんだ。まさかずっと立ってたのか」
「先生を見ていました♪」
「いや怖い怖い怖い」
寝ている姿を暗闇でずっと見られてるってどんなホラー映画だよ。
「先生、寝言で何度も鯵ぃ……とか、美味いぃ……とか言ってました♪」
「その情報は聞きたくなかったな……」
いくら好物を食ったあとの睡眠とはいえ、三十路の寝言がそれでいいのか。
怜はくすくすと楽しそうに笑っていた。
さっきの暗闇で立っていたときはちょっとした怪異かと思ったが、明るい場所で見るといつもの怜だ。
「ところでお前、眠くないのか」
「んー……少しだけ♪」
「じゃあ帰って寝ろよ」
「先生を置いては帰れません♪」
「なんだよその無駄な責任感。酔っぱらった教師なんて放っておいて帰ればよかったんだ」
「それはできません♪」
「なんで」
「先生は介護対象ですから♪」
「お前は教師をなんだと思ってるんですか」
自分の普段の素行を考えると、妥当な評価かもしれないが。
少しだけ沈黙が落ちた。
「まあいい。寮まで送る。帰るぞ」
「わかりました♪」
立ち上がろうとする怜に、俺は声をかける。
「それと怜」
「?」
「わざわざありがとうな」
怜は少しだけ目を丸くして、それからいつものように笑った。
「どういたしまして♪」




