第八話 ようこそ秋場プロへ
目を開けると、白い天井が視界に入った。
カーテンの隙間から日の光が射し込んでいる。
時計を確認すると、朝の八時少し前だった。
すももは腕を広げて布団から出る。
そして、棚に置かれたぬいぐるみを見つめた。
すももは上京して一人暮らしを始めたある日、白い狐のぬいぐるみを拾った。
その日辺りを境に、繰りかえし同じ夢を見ていた。
その夢の中で、すももは天照大神だという女性に会う。
だが、いつも途中で夢は終わってしまい、彼女が何をすももに伝えたかったのか、よく分からなかった。
すももはぬいぐるみを手に取って、子供をあやすように話しかける。
「ねえ、狐さん。『天巫女』って一体なんだろう?女神さまはあたしに何を頼みたかったの?『点点』って一体誰のこと?」
狐は無論、微動だにせず、すももの問いかけに答えようとはしなかった。
すももは諦めると、ぬいぐるみを持ったままリビングに向かい、出発の準備を始めた。
今日は朝から事務所に行かなければならなかった。
すももは、ぬいぐるみをテーブルに置き、リモコンでテレビの電源を入れる。
たまたま、やっていたニュースを観ながら、すももは歯を磨いた。
『昨夜、午後九時頃、東京都渋谷区の路上で、帰宅途中の会社員の女性から、男に襲われていると通報があり、駆け付けた警察官が、首元から血を流した女性を発見しました。女性は意識不明で、警察は付近の監視カメラを調べるなど、捜査を進めています』
女性アナウンサーが、原稿を淡々と読み上げている。
「渋谷区か……。ちょっと怖いね?」
口の中を泡立たせながら、すももは言った。
「…………」
もちろん話し掛けても、狐は何も答えない。
「今日は寄り道せずに帰るか」
すももは洗面所で口をすすぎ、髪を整えてメイクを終えた。
部屋の電気を消して、トートバッグに狐のぬいぐるみを押し込む。
なぜかは分からないが、このぬいぐるみと一緒だと、仕事がうまくいくような気がしている。
幸運のお守りのようなものだ。
「よし、行ってきま~す」
すももは靴を履くと、誰もいない部屋に向かって、声を掛けてから外に出る。
すももはつい最近、一人暮らしを始めた。
話し相手がいないせいか、独り言が増えたなと思う。
ヘルシングの新メンバーオーディションに合格したのが高校二年生の時だった。
これまでは埼玉県にある実家から仕事に向かっていたのだが、卒業を機に上京してきた。
すももが暮らしているアパートは、所属している秋場プロダクションが用意してくれた。
決して広い部屋ではないが、恵比寿駅前という好立地だったし、不満はない。
この渋谷区には大小さまざまな芸能事務所が拠点を構えている。
秋場プロはといえば、小の方に分類される。
秋場プロは駅前にある雑居ビルの中に事務所がある。
すももが暮らしているアパートから歩いて行ける距離だった。
事務所の入居するビルの目印は、一階にある喫茶店の〈ザ・パンダ・ハウス〉。
秋場プロはこの喫茶店の上、ビルの二階にあった。
事務所に入ると、社長はご機嫌な様子だった。
いつものように、すももは彼女と挨拶を交わす。
「おはようございます秋場社長。朝からお元気ですねー」
「ああ、おはよう。朝から犬の散歩に、事務所の片付けと大忙しだ」
そう言う、彼女の両手には段ボール箱。
どうやら不要なものを整理していたようだ。
幼い見た目の彼女が、段ボールを運んでいる姿は、微笑ましく見える。
だが、何を隠そう、この女性こそが秋場プロダクションの社長・秋場彩羽だった。
黒のゴスロリファッションに身を包んだ彼女は、こう見えて、すももよりずっと年上だ。
多分、お母さんと同年代になるのだが、彼女は年齢を全く感じさせない。
初めて秋場と会った時は、芸能界ってすごいなと思った。
「それで、今日は朝から何の要件ですか?」とすももは訊ねた。「昨日もらったメールには、少し早めに来るように書いてありましたけど……」
「ああ、そうだったな」と秋場は段ボールを部屋の隅に置いた。
秋場プロは元々、彼女の個人事務所から始まった。
大手プロダクションから独立した秋場が、設立したこの事務所は、今や何人ものタレントを抱えるまでになった。
大きくはないが、すももは、この事務所が好きだった。
狭い部屋には壁一面に、所属するタレントのポスターが張られている。
ポスターのすももは、初めての撮影ということもあり、若干表情が硬かった。
このアットホームな雰囲気が秋場プロの魅力だと思う。
若干散らかり気味の事務所は、前回来た時より片付けられている。
並べられた机の一つが空席になっていて、ペン一本置かれていない。
「実は新しいマネージャーが来ることになってな」と秋場は言った。
「えっ、新しいマネージャーさん?」
空席になっている机は、すももを担当していたマネージャーの席だった。
前任のマネージャーは、すももにとって、自分を芸能界に導いてくれた大切な人だ。
「ああ」と秋場は頷いた。「やっと代わりが見つかった」
「新しいマネージャーさんはどんな人なんですか?」
「うん?男の子だよ。すももと同い年の」
「同い年?」意外な答えにすももは戸惑う。「しかも、男の人って……」
すももは、デビューして一年足らずの新人アイドルだ。
前任の女性マネージャーから、アイドルとしての作法を学んだものの、芸能界についてまだまだ分からないことだらけだった。
すると、事務所の来客を知らせるチャイムが鳴る。
「おっ噂をすれば……」と秋場が速足で玄関に向かった。
どうやら新人のマネージャーさんらしい。
彼女の小さな背中を見つめながら、すももは小さくため息をついた。
事前に言ってくれればいいのに、と内心で不平を漏らしつつ、秋場に続いて玄関に向かった。




