第五十七話 残り火
男は息も絶え絶えに身を潜めていた。
男が潜伏していたのは、国立市の地下下水道だ。
ヴァンパイア・唯川の邸宅があった住宅街の地下に位置している。
そこは薄暗く、ひどい臭いが充満していた。
「……俺は死なん。何とか生き延びてやる」
スキンヘッドのこの男は、山岡匠晟と名乗るヴァンパイアだった。
唯川邸の爆発に巻き込まれ、山岡は危うく死に掛けた。
だが、幸いにも地下下水道に逃げることで、九死に一生を得ることができた。
山岡は壁にもたれたまま、じっと動かなかった。
洋館の崩壊で、下半身にひどい怪我を負い、とても動ける状態じゃなかった。
今はただ体力を回復させなければならない。
すると、彼の前を一匹の鼠が通った。
山岡は座ったまま腕だけを素早く動かし、鼠の尻尾を掴む。
キーキー騒ぐ鼠を絞め殺すと、そのまま鼠の身体を捻って血を飲み始めた。
「……まずい」
鼠の血はドブのような臭いが漂ってきた。
だが、とにかく血を飲まないと、立ち上がることすらままならない。
ドブ臭い血でも、飲まないよりはずっといい。
「ぺっ!」
山岡は口に入った鼠の毛を吐き出すと、下水が流れる水路に死骸を投げ入れた。
その次の瞬間、何者かの気配に気付き、彼は目を見開く。
下水道の奥に、大きな人影が見えたからだ。
大柄な男で、全身黒ずくめの衣服に身を包んでいる。
その男が、ゆっくりとこちらに近付いて来るにつれ、山岡の心臓は高鳴っていく。
「まさか『梟』?」
自らその名を口にしながら、彼の脳内には疑問符が浮かんでいた。
梟。それは〈ヴァンパイア・ギルド〉の頂点に立つ男の名だったからだ。
「いかにも」正面で立ち止まったその男は、見下ろすように、その冷たい視線を向ける。「それで君は?唯川の部下かね?」
「はい。山岡と言います」
「そうか。それで、君の他に生き残りは?」
「いません。人間の協力者も忍者に捕まりましたし、見ての通り自分も手負いで……」
「ふむ……」と梟は無表情で頷く。「残念だ。唯川とは古い友人だったからな……。それはそうと、君にはいくつか確認したいことがあるのだが……」
「確認したいこと?」
「唯川を殺したのは誰だ?」
梟は友人が死んで悲しんでいるというよりは、事務的に質問しているだけに見えた。
「有島とかいう若い〈下忍〉で……。くそっ……あんなのに殺られるなんて……」
山岡は怒りが込み上げてくるのを感じる。
当然、梟も同じかと思いきや、彼はおかしそうに呟いた。
「有島……。下の名は絆とかいったかな?」
「え?どうでしたかね?確かそんな感じの名前だったと思いますが……。それが何か?」
「いや」梟は堪えきれずに笑い出す。「そうか。思いがけず、早い再会となりそうだ……」
「嬉しそうですね?」
山岡は肩を震わせる梟に戸惑い気味に訊ねた。
「……そう見えるかね?」
その言葉は梟の逆鱗に触れてしまったらしい。
「い、いえ……」
冷ややかな視線に山岡は前言を撤回する。
明らかに空気が変わり、梟は不機嫌そうに、ポケットから煙草の箱を取り出した。
「私は唯川には失望している。彼は確かに天巫女は死んだと連絡してきた。だが、実際はどうだ?内野すももは生きている。何事もなかったかのようにな!」
唯川が死んで数日が経った。
恐らく内野すももはもう芸能活動を再会しているだろう。
彼女が生きていれば、すぐに梟の耳にも情報は届く。
山岡は慌てて弁明を始める。
「お、俺は唯川の旦那に言ったんです!殺してもいいか、と。だが、旦那は認めなかった!あの人は、生かして連れて来いと言って聞かなかった!」
「ほう、そうかね?」
梟は箱から煙草を一本取り出して、口にくわえた。
「そうなんです!俺にもう一度、チャンスをください。今度は完璧に始末してみせます」
山岡は必死の形相で訴える。
うまくいけば梟に取り入ることもできると考えたが、梟は興味がないかのように、煙草を口にくわえたまま、ライターを探すような仕草をした。
「梟さん。あの……ここは下水道です。ここで煙草を吸うのは……」
下水道は有毒なガスが充満していることがある。
基本的に火器は厳禁である。
梟は一度、煙草を口から離すと、睨みつけるように言った。
「ご忠告ありがとう山岡君。だが、私は煙草が吸いたいんだ」
梟は再び煙草を口にくわえると、指先を煙草にかざした。
梟の指先から青い火が噴き出す。
〈邪血術〉の一種なのだろうか。
山岡は〈邪血術〉を習得していないので、分からなかった。
梟は忠告を無視し、煙草の煙をくゆらせる。
辺りに煙がうっすらと広がった。
「それで……君からの提案だが……」
梟は横目で山岡を見る。
「……はい」
山岡は緊張で喉を鳴らした。
「君にチャンスをやろう」
「ほ、本当ですか?」
梟は怒っているかに見えたが、そういうわけではなかったようだ。
梟は煙を吐き出して、吸い終わった煙草をコンクリートの床に落とした。
微かに残った火を消すために、吸殻を靴で踏みつける。
彼の癖なのだろうか。梟は執拗に煙草を足ですりつぶしている。
彼が足を離すと、フィルター内の煙草の葉が、床に散乱した。
「山岡君……私に付いて来たまえ」
梟は彼に背を向けると、一人で歩き始める。
「あ……待ってください」
山岡は脚の怪我が完治していなかった。
ふらふらと立ち上がるが、バランスを崩して転倒してしまう。
だが、梟はそんな彼に見向きもせず、どんどん先に行ってしまう。
ふと、山岡は梟が落とした煙草の残骸に目を留めた。
それでやっと、彼は気付いた。
自分はもう用済みなのだ、と。
梟のチャンスをやるという言葉は、上辺だけの発言に過ぎないということを。
その瞬間、山岡の視界が火に包まれた。
微かに残っていた煙草の火に、下水道内に溜まっていたガスが引火したのだ。
熱と衝撃が山岡に襲い掛かり、彼の意識は途切れた。




