第四十六話 心配無用
大きく長いため息が絆の口から洩れる。
たった今、上司の飛崎に天巫女が攫われた旨を、報告し終えたところだった。
思わず空を見上げると、ビルとビルの間から丸い月が見えた。
「どうでした?」と様子を見守っていたゆかりが訊ねる。
「すっごく怒られたよ。とりあえず、その洋館に向かえってさ。もちろん、ゆかりも一緒にな。援軍を送ってくれるらしいから、そこで中隊長達と合流する」
「彼女はどうします?」
ゆかりの視線の先には、不安げな表情を浮かべる石川の姿があった。
彼女の弟は、その洋館に捕らえられているらしいが……。
「一緒に連れて行こう」と絆は言った。「ヴァンパイアと交渉になった時、いてもらった方がいいと思う。それに、俺達は石川の弟と面識もないし……」
「うん。私も行くよ」と石川は頷いた。「役に立てるかどうかは分からないけど……」
「ああ、頼む。その方が助かるよ。ところで、疑うわけじゃないんだが、どうやって連中の居場所を突き止めたんだ?」
「突き止めたなんて大層なことじゃないよ。唯川って奴に招待されて、その屋敷に行ったことがあるってだけ」
「招待された?」
「ええ」石川は嫌そうな表情をした。「唯川はアイドルオタクらしくて」
「オタク?」
すももが殺されずに攫われたことと、関係があるのだろうか。
「そう。あいつの秘密の部屋には、アイドルが着るような衣装がいっぱいあって……」
話の途中で、ゆかりは彼女の首筋に手を伸ばした。
「石川さん、ちょっと失礼……」
ふいに、ゆかりは石川の長い髪を払った。
白くて細い彼女の首筋が露わになる。
「やっぱり……」とゆかりは深刻な表情を浮かべて呟く。「微かですが、ヴァンパイアの歯形が残ってますね……。よく見ないと、分からない程度のものですけど……」
石川の首筋には、ゆかりの言う通り傷痕が残っていた。
何度も彼女と会っているのに気付かなかった自分が嫌になる。
「……辛かったですよね。でも、もう安心していいですよ」
そう言って、ゆかりは石川を抱きしめる。
突然のことに戸惑いつつも、石川は肩の力が抜けたように安堵した表情になった。
どうやら唯川というヴァンパイアは、彼女を辱めるような行為をしたようだ。
彼女の表情がそれを物語っている。
「……私は大丈夫だから」石川はそっとゆかりから離れた。「早くすももの元に。彼女までヴァンパイアの毒牙にかけられる前に……。お願い」
「そうですね」ゆかりは頷くと、絆に視線を向けた。「それで、どうやって行きます?敵のアジトまでここからだと遠いですよ」
唯川の邸宅は、車を使っても一時間近くかかる距離にある。
帰宅ラッシュのこの時間だと、さらに時間を要するだろう。
「仕方ない。走るか」と絆はため息混じりに言った。
石川はそんな絆を、信じられないといった表情で見つめる。
「走るって……本気で言ってる?何時間かかると思ってるのよ」
「心配無用」ことの成り行きを見守っていた点点が口を開く。「彼らは忍者じゃ。本気を出せば、車より速いわい。石川佳叶は有島絆におぶってもらえばいい」
「え、ええ!?」と石川は驚いた声を上げる。
「有島君が嫌なら、私が連れて行きますよ?」
とゆかりは申し出るが、石川は首を横に振った。
「本気なのね。でも、それなら有島さんにお願いする。さすがに女の人に無理させるわけにはいかないし……」
それじゃあ決まりじゃなと点点は頷いた。
「儂は蓮井ゆかりと共に行く。有島絆は石川佳叶を」
そう言うと、点点はゆかりの鞄の中にひょいと入って行った。
「えっと……」絆はややためらいがちに腰を落とす。「それじゃあ石川、俺の背中に……」
彼女は戸惑った様子で絆の後ろに立った。
「……わ、分かった。それじゃあ、お願い。ちょっと重いだろうけど……」
絆は石川を背負う。
謙遜しているが、彼女はスレンダーな体型なので軽かった。
様子を見守っていたゆかりが彼女に声を掛ける。
「石川さん、準備はよろしいですか?」
「ええ。何だかごめんなさい。その……有島さんと、こんなにくっついてしまって……」
指摘されて、石川佳叶とぴったりと密着している事実に気付かされた。
絆の背中には、柔らかい彼女の身体が押し付けられているのだ。
絆は邪念を消すように首を振った。
「そんな話をしている場合じゃないだろ。とにかく、すもものもとへ急ごう」
「そ、そうですね」とゆかりも頷く。「石川さん、道案内お願いします」
石川が背後で返事をするのを聞きながら、絆はみんなに言った。
「それじゃあ出発するぞ。石川、しっかり捕まってろよ」
「え、ええ。ひゃ……」
石川が息を呑む気配が伝わってくる。
それもそのはずだ。
絆は彼女を背負ったまま、ビルの壁を垂直に走り出したのだから。
印を組むのは省略したが、〈壁走りの術〉である。
そのまま屋上まで到達すると、少し遅れてゆかりも付いて来た。
二人は顔を見合わせると、並んで疾走する。
ビルからビルへと飛び移りながら、目的地へと突き進んでいく。
日は完全に沈んでいるので、通行人たちの目に触れることはなかった。




