第二十九話 狸でござる
――ピンポーン!ピンポーン!
絆は扉の前で何度もチャイムを鳴らしたが、一向に返事はない。
表札には〈内野〉と書いてある。
内野すももは芸名ではなく、本名なのだとか。
すももが尊敬しているヘルシングの人気メンバー潮巡。
彼女のソロライブに行くことになり、絆は午後三時にすももの部屋に迎えに行くことになっていた。
だが、約束の時間だというのに、全く音沙汰がなかった。
昼寝でもしているのだろうか。
部屋には点点もいるはずだが……。
仕方ない。
絆はスマホを取り出して、電話を掛けてみる。
何度かやってみたが、全然繋がる気配がなかった。
絆はおもむろに周りを見回す。
アパートの廊下に他に人気はなかった。
忍術を使っても、誰かに見られる心配はなさそうだ。
絆はスマホをしまう代わりに、苦無を取り出して右手の掌に傷を付ける。
じわりと血が滲んだのを確認すると、コンクリートの床にそっと右手を置いた。
「来てくれ小助!」
破裂音とともに、白い煙が周囲に漂う。
絆の呼びかけに応じるように現れたのは、赤い羽織を着た狸だった。
彼の腹には、絆の血が使われた五芒星が描かれている。
絆の式神の小助である。
「おはようございます絆殿」
小助は床に膝を付いて、恭しく挨拶をする。
「おう、おはよう。もう昼過ぎだけどな」
「今日はどのようなご用件でござるか?」と小助は時代劇のような硬い口調で訊ねる。
「実は、護衛対象の天巫女が、なかなか姿を現さなくて困ってる。悪いが、部屋の中を見て来てくれないか?」
「お安い御用」
「今、忍術で鍵を解除するからな」
そう言うと、絆は素早く印を組んだ。
義賀流忍術には十の印がある。
その印を組み合わせることで忍術を発動させる。
〈庚〉の印、〈戊〉の印、〈辛〉の印と三つの印を流れるような動作で結ぶ。
「〈錠好の術〉……」
術名を口にしてから、そっと鍵穴に右手をかざす。
すると、カチャリと小気味いい音が聞こえてくる。
この術は金遁に属し、鍵で閉まった扉などを開けるのに使用される。
「開いたぞ」と絆は式神に告げる。
「では、後は任せてくだされ」
小さな狸は人間のように二本足で歩き、前足を使って扉を開けると、そのまま中へと入って行った。
絆は部屋の中には入らず、外で待機していたが、急に室内が騒がしくなった。
「お、お主は!」と絆の式神の声がする。
「小助か!なぜここにいる?ここは天巫女の住まう場所じゃぞ」
応戦しているのは点点だろう。
小助と仲が悪いのをすっかり忘れていた。
大丈夫かと不安になる。
二匹の言い争う声が聞こえてきて、絆は思わず扉に手を伸ばす。
その時、部屋の中から怒ったすももの声が響いてきた。
「こら何やってるの点点!近所迷惑でしょ!うわっ何かいる!どうやって入って来たの?」
「お、落ち着いてくだされ。絆殿に頼まれて様子を見に来たのじゃ」
小助が慌てた様子で事情を説明した。
急に言葉を話したものだから、すももは動揺して大声を上げる。
「あ、アライグマが喋った?」
「拙者は狸でござる!赤殿中という狸の妖怪じゃ」
「よ、妖怪?」
すももは寝ぼけているらしく、頭が回っていないようだった。
「悪い!驚かせた。そいつは俺の式神だ!害はない」
絆は外から彼女に事情を説明する。
「絆君、来てるの?どこ?」
「玄関扉の前だ。入っても大丈夫か?」
「別にいいよ!」と中から声が聞こえてくる。
絆は扉を開けると、靴を脱いで、玄関から中に入る。
相変わらず散らかっている室内で、狸と狐はにらみ合っていた。
困ったような顔をしているのは、部屋着姿のすももだった。
「式神って?もしかして、この間、話していた子?そういえば、お腹に五芒星が……」
絆の背中にも小助と同じ星のマークがある。
式神の契約の証だ。
「そう。すももが寝てるみたいだから、彼に起こしてもらおうと思って……。チャイムを鳴らしても、電話を掛けても返事がないからな」
絆が嫌味を言うと、ごめ~んと、すももは慌てだした。
「昼寝してた。迎えに来てくれたんだ?準備しなきゃ。着替えてくるから待ってて」
すももは大急ぎで寝室に行くと、扉をバタンと閉めた。




