第十八話 消えないにおい
繁華街で山岡というヴァンパイアが発砲したというのに、渋谷の街は何事もなかったかのように平常運転だった。
せわしなく人が行き交い、煌々とした照明が夜の街を照らしている。
ヴァンパイアが施した人払いの結界の効果だ。
ちょっとした争いぐらいでは、まず気付かれることはない。
絆も何食わぬ顔をして、すももと一緒に帰路につく。
絆は彼女の部屋の前まで送り届けると、それじゃあまた明日と扉を閉めた。
「ちょっと待った!」
すももは勢いよく扉を開けて叫んだ。
「静かにしろよ」と絆は小声で注意する。「もう遅い時間だ」
時刻は夜の十時を回っていた。
集合住宅なので、近所迷惑になる。
「ご、ごめん……。絆君、一旦中に入ってよ。いろいろと訊きたいこともあるし……。それに、またヴァンパイアが来るかもしれないでしょ」
「それなら大丈夫。ヴァンパイアは住人に招かれないと家の中に入れないんだよ。ヴァンパイアに掛けられた一種の呪いだな」
「呪い……」とすももは繰り返した。
「それに、点点もいることだしな……。点点が来てから今日をのぞいて、危なかったことは一度もないはずだ」
「そうだけどさ……」
すももは不安げに絆を見やる。
何となく納得がいっていないといった表情だ。
すると、先に部屋に入っていた点点がひょっこりと顔を出す。
「すももが怖がるのも無理ないわい。彼女は、まだほとんど何も知らないのじゃ。彼女が納得するまで説明してやるのが筋というもの」
夜中に女の子の部屋に上がるのは、まずいのでは……。
絆が逡巡していると、点点が続けて言った。
「そうじゃ有島絆。忘れておった。天巫女の護衛をやるなら、儂とある契約を交わさないといかんのじゃ」
「契約って何の?あー仕方ない……。それじゃあ、すもも、しばらくお邪魔させてもらっていいか?用件が済んだらすぐ帰るから」
絆は念のため、下心はないというアピールをしておいた。
自分はあくまで護衛上の都合で彼女の自宅に上がるのだ。
「どうぞ。ちょっと散らかってるけど、上がって。あ、玄関の鍵閉めておいてね」
「あ、ああ」言われるがまま、絆は扉を閉め、鍵を掛けた。「お、お邪魔しま~す」
革靴を脱いで、恐る恐るすももの部屋に足を踏み入れる。
「適当に座ってて」すももは言った。「何か飲む?麦茶あるけど」
「うん。ありがとう」
彼女は冷蔵庫を開け、水だしポッドを取り出す。
点点がてくてく歩いてリビングの椅子にちょこんと座ったので、絆も隣りに腰掛ける。
すももの部屋は、引っ越してきたばかりのように段ボールが至る所に積み上がっていて、お世辞にもきれいとはいえなかった。
「あははは……」すももは苦笑しながらテーブルにコップを二つ並べる。「上京してからほとんど片付けてなくて……。佳叶にも注意されたんだけどさ」
「石川さん?自宅に呼ぶくらい仲いいのか?」
「うん、そうだよ。この間もうちで佳叶とゲームした」
散らかったリビングのテレビ台には、最新のゲーム機が収納されている。
コントローラーもいくつか見える。
すももは麦茶を入れたコップを絆の前に出した。
点点がじっと水だしポッドを見つめているので、すももは訊ねる。
「点点も……飲む?……というか飲めるの?」
彼は不思議な術を使うとはいえ、その身体はぬいぐるみで、食べ物を飲み食いできるようには見えない。
「できるぞ。まあ、何も食べなくても死にはしないが……」
「そうなんだ。不思議~」すももは驚いたように点点を見つめる。「コップで飲む?それとも、小皿か何かに移した方がいいかな?」
「コップでよい」
「そう?」
すももはガラスのコップに麦茶を注ぎ、点点に差し出す。
器用な手つきで麦茶を飲む神の使いは、コップの中身を半分ほど飲み干すと、本題に入ろうと切り出した。
「さて、まずは何から話すかのう」
「点点、いい?」すももは開いている席に腰を掛けると、手を上げて訊ねた。「忍者とヴァンパイアが戦ってるのは、何となく分かったけど、何であたしが命を狙われることになるの?天巫女って何?」
「うむ。それは、天巫女がヴァンパイアにとって危険な存在だからじゃよ」
「危険?」
「天巫女は天照大神に仕える巫女のこと。それは太陽を司る神に仕えるということ」
点点の言葉を引き継いで、絆はすももに説明する。
「ヴァンパイアは映画などで描かれるように太陽に弱い。日の光を長時間浴びたら、ヴァンパイアは死んでしまう。太陽には科学的には説明できない、神聖な力が宿ってるらしいんだ。だけど、その力は何もしないと段々と弱まってしまう」
「その力を維持するため」点点は言った。「祈りを捧げる役割を担うのが天巫女じゃ」
「それが天巫女の役割?でも、何であたしなの?忍者の人がやればいいじゃない?」
確かに、と絆は頷く。
「でも、それは無理なんだ。忍者の一族は長い歴史の中で多くの人の命を奪ってきた。もちろん、ヴァンパイアのような妖怪もだ。神に祈りを捧げるのは、血で手が汚れているような人間じゃなく、里の外部で普通に暮らしている者でないと……」
「絆君も……その……」
すももは言いにくそうに視線を逸らした。
「何だよ?」
「人を殺したことはあるの?」
「……あるよ」絆も彼女の方を見ずに言った。「これでも忍者だからな。ヴァンパイアなんて何体葬ったか分からない。少しは分かったか?すももが巫女に選ばれた理由が……」
台所の蛇口から、水がぽつぽつと垂れているのが見える。
おそらく絆の手は、いくら洗っても血の臭いを完全に消すことはできない。




