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晒された急所

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それでは、どうぞお楽しみください。

罠(わな)だと、分かっていた。


鉄門の方角では、あの重なった声がまだ鳴っていた。城壁の上の空は、少しずつ白くなっている。ここで鎖に捕まれば、俺は教会の地下で処分の指示を待つことになる。左の脇腹には、さっきの柄頭(つかがしら)の重さがまだ残っていた。


イレーネは、俺の左の斜め前から歩いてきた。洗い桶(おけ)の横を抜け、距離は5歩、4歩と縮んだ。細剣は右手に下ろしたまま、切っ先が泥をかすめていた。左手の鎖も、垂れたままだった。


顎(あご)を上げた喉だけが、白く浮いていた。そこへ手を伸ばせば、また止まる。止まった俺の腕を、あの刃が待っている。


俺は、右手に硬殻(こうかく)Lv.3を張った。拳から肘までを、灰色の殻が覆った。


狙う場所を、先に決めた。喉ではない。細剣だ。刃を叩き落とせば、この女は鎖しか持たない。


距離が2歩になった。俺は、右の拳を細剣へ振った。


イレーネの身体が、半歩だけ回った。細剣を持つ右手が、彼女の腰の後ろへ隠れた。拳の通り道に、刃がなくなった。代わりに、そこにあったのは、開いた胸と、白い喉だった。


拳が、止まった。喉の手前、手のひら1枚分の空中で、肘が固まった。


止めなければ、潰していた。止めたから、何も起きなかった。何も起きなかったのは、俺の方だけだった。


腰の後ろから、細剣が出てきた。下から、斜めに。止まった俺の右腕の、肘の少し上の外側へ。殻の縁の、すぐ上だった。


刃が、入った。熱い、と思った。痛みは、その後から来た。切っ先は、指の関節1つ分ほどの深さで止まり、すぐに抜けた。


外套(がいとう)の右の袖が裂け、血が肘の方へ流れ落ちた。左の袖は、さっき裂かれたばかりだった。イレーネは、もう2歩下がっていた。


右腕を伸ばすと、傷が引きつれた。拳は握れた。だが、肘を伸ばしきるところで、腕の外側に焼けるような痛みが走った。


「あなたの手は、喉へ来ます」


イレーネは、細剣の先についた血を見もしなかった。


「そして、止まります」


「罠(わな)だと、分かってた」


「分かっていても、止まります。止まらなければ、私は死にます。あなたは、それを選べません」


淡い紫色の目が、俺の右腕の傷から、顔へ戻った。


「ですから、私の喉は、あなたの手を止める場所です」


俺は、答えなかった。


この女は、自分の喉を盾にしている。俺が殺さないことに、自分の命を賭けている。賭けに負ければ、死ぬのはこの女だった。それを、この女は分かったうえで、顎(あご)を上げていた。


殺さずに、足を止める。それなら、この女の身体に触れなくてもいい。


俺の左に、洗い桶(おけ)があった。スポアハウンドの沈んでいない方の桶(おけ)だった。雨水が、縁まで張っていた。


イレーネが、また1歩寄ってきた。俺は、その桶(おけ)の縁を右足で蹴った。


桶(おけ)は横倒しになった。中の雨水が、泥を巻き込んでイレーネの足元へ押し寄せた。


足を取られれば、転ぶ。転べば、鎖も細剣も一瞬遅れる。その一瞬に、細剣だけを奪えばいい。


イレーネは、転ばなかった。押し寄せる水の手前で、足を止めていた。水が靴の先を洗い、引いていくのを、動かずに待っていた。


水の引いた後の地面は、さっきよりずっと柔らかい泥になっていた。その泥の上に立っていたのは、俺の方だった。蹴った右足を下ろすと、靴が踝(くるぶし)まで沈んだ。


イレーネは、水の届かなかった井戸寄りの縁を、横へ歩いた。俺が作った泥だった。その泥が、俺の足を掴(つか)んでいた。


硬殻(こうかく)Lv.3を、右肩まで広げた。殻が伸びるにつれて、薄くなった。拳の上の殻は、さっきの半分ほどの厚さになった。それでも、刃が通るよりはいい。


イレーネは、それを見て、足の運びを変えた。俺の右へ回らず、左へ回った。井戸と洗い桶(おけ)の列の間へ、俺を追い込む向きだった。


井戸の石組みと、並んだ桶(おけ)の縁。その間は、人が2人並べるかどうかの幅しかなかった。横へ跳べば、桶(おけ)に足を取られる。後ろへ下がれば、井戸の脇のグールの死骸がある。


動ける方向が、前と、斜め後ろの2つだけになった。イレーネは、正面には来なかった。左手の鎖を、横へ振った。


白い輪が、俺の足元ではなく、井戸の石組みへ飛んだ。石組みの縁を1周して、鎖の先が戻ってきた。戻ってきた先が、俺の左の足首に絡んだ。鎖の途中が、井戸の石に掛かっていた。


イレーネが、鎖を引いた。引いたのは、腕ではなかった。身体ごと後ろへ倒れるように、体重を鎖に預けた。


俺の左足が、横へ持っていかれた。


踏ん張ろうとした。俺の力なら、この女1人の体重は止められる。だが、鎖は井戸の石を回っていた。引く力は石の縁で向きを変えて、足首を真横へ引いていた。


体重が、左足に乗っていた。その足が、泥の上で真横へ滑った。左膝が、内側へねじれた。


鈍い音が、膝の奥でした。音というより、手応えだった。施設跡の斜面を下りたときから、何度も軋(きし)んできた膝だった。


膝から下の力が、抜けた。俺は、左膝から泥に落ちた。背中の包みが、前へ揺れた。


後ろへは倒れなかった。右手で泥を突き、身体を前へ支えた。打たれた左の脇腹が、その拍子に引きつった。


左膝に、熱が集まってきた。脈を打つたびに、膝の皿の内側が内から押された。体重を乗せようとすると、膝ごと崩れそうになる。抜ける、という感覚だった。


イレーネは、鎖を緩めなかった。井戸の石を支点にしたまま、泥の上を回り込んできた。俺の背中側へ。


石垣の上で、白い外套(がいとう)の男が1人、身を乗り出すのが見えた。手は、剣の柄にかかっていなかった。見ているだけだった。


背中側には、シグの包みがある。中の単眼は、光を落としたまま動かなかった。胸の前で2度締めた紐を、指で確かめる暇はなかった。


そこへ刃が来ると思った。身体をひねって、右腕の殻を背中へ回した。刃は、背中へは来なかった。


細剣は、低く、俺の左の足首の後ろへ伸びていた。踵(かかと)の上の、太い筋。そこを断たれれば、人は歩けない。


俺は、左足を引いた。膝が抜けそうになるのを、歯で押さえて引いた。切っ先が、靴の後ろに当たった。


兵の払い下げの、硬い革だった。革が裂ける音がした。刃は革を1枚抜けて、その下の皮膚を浅く切ったところで止まった。


筋までは、届かなかった。ヴァルターの靴が、刃を半分止めていた。


イレーネは、細剣を引いた。引きながら、左手の鎖をもう1度振った。


井戸の石から外れた鎖が、俺の両膝の上へ落ちた。2巻き、3巻き。泥ごと、両脚をまとめて締め上げた。


鎖の端は、また井戸の石組みへ回された。イレーネは石の縁に鎖を1度巻きつけ、その先を左手に握って、4歩の位置で止まった。


俺は、両膝をついていた。脚は、鎖で束ねられていた。


力任せに立とうとすれば、鎖は井戸の石を引く。石組みは、俺の力では動かなかった。先に、左膝が崩れた。


右腕の傷から、血が手首まで流れていた。左の踵(かかと)の上が、靴の中で濡れていた。速さも力も、1つも使えないまま、泥の中に座らされていた。


1年前も、鎖でつながれていた。黒淵(こくえん)の山道で、俺の鎖は若い兵が持っていた。その前に、詰所で「奈落(ならく)へ送ってください」と言ったのは、この女だった。


今、鎖を持っているのは、その女本人だった。


イレーネは、細剣の切っ先を下ろした。息が、少しだけ荒くなっていた。白い頬に、泥が1筋ついていた。それでも、声は平らだった。


「関節と、足と、動く道です」


彼女は言った。


「あなたが速くても、動く道がなければ、速さは使えません。力が強くても、足場がなければ、力は泥へ逃げます」


「……喉は、使えるのか」


「使えました。あなたが、あなたである限り」


鉄門の方角で、重なった声が鳴った。さっきより、少しだけ遠くなった気がした。遠くなったのか、向きが変わったのか。雨上がりの風の中では、確かめられなかった。


イレーネは、その声の方を見なかった。


「対象、レイ・クロウ」


黒い手袋が、鎖を握り直した。


「拘束します」


膝の上の鎖が、冷たかった。輪の内側から、あの細い冷気が脚の中へ入ってきた。掴(つか)む場所を探す指が、膝から腿(もも)へ、腰へと上ってきた。


輪の文字が、淡く光っていた。3巻き分の文字が、俺の脚の上で、一斉に光っていた。


胸の奥で、何かが目を覚ました。熱だった。焼却炉の陰で、肩のところで押し止めたもの。封じるものを見つけて、食らいつきに行こうとするもの。


黒炎(こくえん)Lv.1が、膝の上の鎖へ向かって、胸から這(は)い下りようとしていた。


俺は、鎖の先を目で追った。膝の上の輪から、井戸の石を1周して、その先。4歩向こうの、黒い手袋の中。


熱がどこで止まるかを、俺はまだ決められない。押し戻そうとして、胸の奥で手が止まった。


押し戻せば、また同じだった。鎖に縛られたまま、この女の平らな声を聞くことになる。


俺は、鎖の上の文字を見た。焼くなら、どこを焼くのか。どこで止めるのか。


今度は、それを決めてから、手を離すことにした。

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