殺さない剣
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それでは、どうぞお楽しみください。
白い鎖の先が、泥に触れた。イレーネは、それ以上鎖を伸ばさなかった。左手に垂らしたまま、右手で細剣を抜いた。白銀の刃が、石垣の上の角灯の光を細く返した。
鉄門の方角では、あの重なった声がまだ低く鳴っていた。群れは、まだ町の中にいる。あの鎖が効けば、俺は教会の地下へ運ばれ、処分の指示を待つことになる。そして俺のすぐ後ろには、子供を抱いたミアがいた。
距離は7歩。イレーネは石垣を背にして立ち、俺は井戸の前に立っていた。ミアは、井戸の石組みの前で、子供を抱えたまま動かなかった。
俺の左には、洗い桶が2つ並んでいた。手前の桶の中には、スポアハウンドの死骸が沈んでいる。右には、井戸の脇に倒れたグールの死骸。足元は、雨を吸いきったぬかるみだった。
城塞兵の3人は、石垣の端に固まっていた。松明が1本、震えていた。石垣の上には、白い外套の男が2人立っていた。
「手を出さないでください」
イレーネは、振り返らずに言った。石垣の上の2人が、剣の柄から手を離した。
イレーネが歩いてきた。走らなかった。ぬかるみの上を、1歩ずつ、足の裏全体で踏んで近づいてくる。泥に足を取られない歩き方だった。
俺は、前へ出た。後ろにはミアがいる。ここで待てば、刃も鎖も、ミアの目の前で振られる。3歩出て、井戸から離れた。
細剣の切っ先は、低かった。喉でも胸でもなく、俺の膝の高さにあった。距離が4歩になったとき、切っ先が伸びた。
狙いは、右膝の外側だった。膝の皿の横の、脚を曲げる筋。俺は右手に硬殻Lv.3を張り、刃の腹を手の甲で払った。硬い音がして、切っ先が外へ逸れた。
刃が殻に触れた一瞬、細剣の先の方で、細かな文字が淡く光った。鎖の輪に刻まれていたのと、同じ文字だった。焼却炉の陰では、鎖の光に紛れて気づかなかった。
光ったのは、切っ先から3分の1ほどまでだった。根元の方は、光らなかった。殻の、刃が当たった一点だけが、わずかに薄くなった。
払った勢いのまま、俺は踏み込んだ。イレーネの右半身が、刃ごと外へ開いていた。空いた場所が、目に入った。白い襟の上の、喉だった。
右手が、そこへ向かった。今度は、自分で分かった。伸びた先が喉だと分かった瞬間に、肘が固まった。拳は、襟の手前で止まった。
止めたのではなかった。また、止まった。
その半呼吸の間に、イレーネは1歩下がっていた。左手の鎖が、地面を這った。輪が泥を削り、俺の左の足首へ巻きついた。
引かれた。
踏ん張れば、立っていられるはずだった。力は、俺の方が上だ。だが、泥が足の裏から逃げた。左足が滑り、身体が後ろへ傾いた。
背中には、シグの包みがある。後ろへは倒れられない。俺は、自分から前へ崩れた。右膝を泥につき、左手で地面を押さえた。
膝をついた俺の頭の上を、細剣の刃が通り過ぎた。刃は、俺に当たらなかった。当てる気のない振りだった。俺が顔を上げたとき、イレーネは鎖を引いたまま、元の7歩の位置へ戻っていた。
足首の鎖は、殻を張っていない場所に巻いていた。あの冷たい指が、足首から脛へ、膝へと、掴む場所を探して上ってきた。胸の手前で、また迷った。
封じるための鎖ではなかった。今のは、足を払うための縄だった。
俺は、鎖を両手で掴んだ。引き返せば、イレーネの方が泥の上を滑ってくる。そう考えて、腕に力を入れた。
鎖が張った。張った次の瞬間、手応えが消えた。
イレーネが、鎖を引く手を緩めていた。緩めただけではない。俺が引いた方向へ、自分から2歩、滑るように寄ってきた。
引いた力が、行き場を失った。俺の上半身が、後ろへ泳いだ。寄ってきたイレーネの細剣が、俺の左の肘の内側へ伸びた。
左腕に殻を張った。間に合った。刃は殻の上を滑り、外套の袖を裂いて抜けた。イレーネは、また下がった。
俺の手の中には、緩んだ鎖だけが残った。足首の輪は、いつの間にかほどけていた。
立ち上がると、井戸の石組みが、背中から2歩のところにあった。3歩出たはずだった。押し戻されていた。
「レイ」
背中で、ミアが呼んだ。振り返らなかった。振り返れば、その間にあの刃が来る。
「下がってろ」
「下がってる。もう井戸だよ」
声が、少しだけ速くなっていた。怒っているときの速さだった。
イレーネは、細剣を下ろした。切っ先を泥に向けたまま、ミアの方を見た。
「兵の方」
石垣の端の3人が、びくりと動いた。
「その娘と子供を、教会へお連れください。西の通りではなく、職人区の裏から大通りへ出てください」
兵たちは、顔を見合わせた。1人が、俺の方を見て、すぐに目を逸らした。
「巡察官様」
ミアが言った。
「この人は、この子を助けたんです。拘束って、どういうことですか」
「教会の地下に、留まっていただきます」
「……また、閉じ込めるんですか。1年前みたいに」
イレーネは、すぐには答えなかった。左の手首から、銀の数珠が垂れていた。鎖を握った手の親指が、その玉を1つ押さえた。
押さえたまま、指は動かなかった。それから、平らな声で言った。
「あなたが残っても、何も変わりません」
イレーネの目が、ミアの腕の中の子供へ移った。
「子供は、変わります。ここにいれば、泥と刃の中にいることになります」
ミアの腕の中で、子供が小さく鼻を鳴らした。泣き出す前の音だった。
「ミア」
俺は、前を向いたまま言った。
「その子を連れて、行け」
「嫌」
すぐに返ってきた。
「また、いなくならない?」
「ならない」
「本当に?」
「話すって、約束した。ここを出てから話す。だから、先に出てろ」
しばらく、背中で何も聞こえなかった。それから、泥を踏む音がした。
「……約束、だからね」
鈴が鳴った。兵たちが、石垣の端から洗濯場の縁を回ってきた。俺から4歩の間を空けて、ミアの横へ並んだ。松明の火が、ミアの頬と、子供の裸足の足を照らした。
イレーネは、その間、1歩も動かなかった。細剣の切っ先を泥に向けたまま、道を空けていた。ミアたちは、井戸の向こうの、職人区へ抜ける細い道へ入っていった。
鈴の音が、遠ざかっていった。ミアの声は、まだ耳に馴染んでいない。だが、この鈴の音なら、どこまで離れたかが分かった。
音が聞こえなくなってから、イレーネは細剣を上げた。
「これで、あなたは後ろを気にしなくてよくなりました」
「なぜ、行かせた」
「あの娘を使って、あなたを止めるつもりはありません。今夜は」
今夜は。数珠の上の指は、もう動いていた。
後ろに、守るものはなくなった。俺は、泥を蹴った。
今度は、待たなかった。7歩を、3歩で詰めた。イレーネの目が、俺の速さに一瞬遅れた。遅れたのが分かった。
左手を伸ばした。細剣を持つ右の手首を、掴もうとした。指が触れる寸前で、手が鈍った。
棍棒の男の手首が、頭に浮かんだ。古道で、止めた直後に掴んで、折った。握る強さは、今も指から返ってこない。この手で掴めば、この女の手首も同じになる。
折るだけで済むのか。それも、分からなかった。鈍った手の下を、イレーネの右手がくぐり抜けた。
細剣の柄頭が、俺の左の脇腹を打った。刃ではなかった。重さだけが、肋骨の古い傷に響いた。
俺は、肩でイレーネを押し返そうとした。押す寸前で、それも止まった。胸を押しただけで、髭の男は3メートル飛んだ。咳をして、身体を折った。
その間に、イレーネは横へ抜けていた。俺の左へ回り、洗い桶の陰に立った。俺たちの間に、スポアハウンドの沈んだ桶が挟まった。
速さは、俺の方が上だった。力も、上だった。それなのに、手を出すたびに、自分の手が止まった。
喉へ行けば止まる。手首へ行けば鈍る。押そうとすれば迷う。止まった分だけ、あの女は1歩先にいた。
俺が知っている勝ち方は、どれも、相手が死ぬ勝ち方だった。殺さずに止める方法を、俺は1つも持っていなかった。
イレーネは、桶の向こうで細剣を構え直した。息は、少しも乱れていなかった。
「あなたは、私より速い。力も、私よりはるかに強い」
淡い紫色の目が、俺の手を見ていた。
「ですが、あなたには、私を止める方法がありません」
言い返す言葉が、見つからなかった。
鉄門の方角で、あの重なった声が、低く鳴り続けていた。城壁の上の空が、さっきより白くなっていた。
イレーネは、桶の陰から出てきた。細剣を、下ろした。鎖も、垂らしたままにした。
構えを解いたのではなかった。彼女は、胸を開き、顎をわずかに上げた。白い襟の上の喉が、俺の正面に晒された。
「どうぞ」
イレーネは、まっすぐ歩いてきた。




