聞いたことのない声
ご覧いただきありがとうございます!
よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、どうぞお楽しみください。
少しかすれた声だった。長く叫んだあとの喉で、無理に絞り出したような声だった。高くも低くもなく、最後の音が細く震えて消えた。それが、ミアの声だった。
鉄門の方角では、あの重なった声がまだ低く鳴っていた。頭巾は背中に落ちたままで、足元の角灯が俺の顔を下から照らしている。今夜、焼却炉の陰で、イレーネは足りるようにしてから来ると言った。それでも、俺は動けなかった。
目の前にいるのがミアだということは、分かっていた。淡い金髪も、灰青色の目も、少し尖った顎も、首元の銀の鈴も、全部がそうだと言っていた。呼ばれた名前も、俺の名前だった。それなのに、その声を、俺は1度も聞いたことがなかった。
第12層で、何を失うか分からないまま、取得すると言った。声なら、会えばまた聞ける。そう思った。
聞けた。聞けたのに、聞き直した気がしなかった。今、耳に届いた声は、どこにもつながっていなかった。1年前の広場にも、山道にも、厨房の奥の机にも。
「……ミア」
自分の声は、もっとかすれていた。
ミアは、子供を抱えたまま俺の顔を見ていた。瞬きを1度して、もう1度した。消えないかを確かめるように。
「本当に?」
「本当だ」
ミアは、子供の手をそっと井戸の石へ預けた。立ち上がり、1歩、前へ出た。それから、走ってきた。
「お兄ちゃん!」
ミアの身体が、胸にぶつかった。両手が、俺の外套の前を掴んだ。額が、胸の真ん中に押しつけられた。
1年前、黒淵へ向かう山道で、同じところへ額を押しつけられた。あのとき、胸元には記録帳の角があった。今も、あった。
お兄ちゃん。その言葉は、覚えていた。山道で、背中にぶつけられた言葉だった。振り返れば戻れなくなると思って、それでも振り返った言葉だった。
言葉は同じだった。声だけが、初めて聞く声だった。
俺は、両手を上げた。ミアの背中へ回そうとして、途中で止まった。握る強さは、指から返ってこない。卵の殻を砕き、斧の柄を割り、縄を切った手だった。
指を開いたまま、手のひらだけを、ミアの背中に置いた。握らなかった。それでも、手のひらの下で、ミアの背中が震えているのが分かった。
胸の真ん中が、熱かった。帰ってきた、と思った。石室で空を見たときでも、丘の上から城壁を見たときでもなかった。今、ここで、初めてそう思った。
「遅い」
胸に額をつけたまま、ミアが言った。
「……悪い」
「3日って言った」
「言った」
「1年だよ。1年も、何してたの」
「落ちてた。それから、上ってた」
「ばか」
外套を掴む指に、力が入った。
「みんな、死んだって言った。司祭様も、兵隊も、町の人も。骨も残ってないって。私は、思ってなかった。思ってなかったけど」
声が、そこで途切れた。しばらく、ミアは何も言わなかった。俺の胸の真ん中で、息だけが熱かった。
「……帰った」
俺が言うと、ミアは顔を上げた。灰青色の目が濡れていた。濡れたまま、怒っていた。
「見れば分かるでしょう」
知っている言い方だった。1年前、七柱の石板の下から這い出してきたときも、同じことを言われた。言葉の形も、言い返すときの間も、覚えていた。
ただ、その言い方をする声だけを、俺は今、初めて聞いていた。知っている言葉を、知らない声が話していた。
俺は、その声を覚えておこうとした。かすれ方。語尾の震え。怒ると少しだけ速くなるところ。
どこにもつながらない声を、今日のこの場所に、1つずつ結びつけようとした。背中の包みの中で、何かがかすかに動いた気配がした。シグは、何も言わなかった。単眼の光を最小に落としたまま、聞いているのが分かった。
会った日の声は、記録できる。水門小屋の机の前で、シグはそう言った。今が、その日だった。
「痩せた」
ミアが、俺の頬に指で触れた。
「傷も、増えた。ここも、ここも」
額の古い傷と、顎の傷を、指先が1つずつ確かめていった。指先は冷たかった。雨の中で、竿を握り続けていた指だった。
その指が、途中で止まった。
「……ねえ」
ミアが、俺の目を見た。
「どうして、そんな顔するの」
「どんな顔だ」
「私が喋るたびに、何か探してるみたいな顔」
言葉が、喉の奥で止まった。
ミアの指は、まだ俺の頬に触れていた。その指先から何かを確かめるように、ミアは少しだけ目を細めた。
「……何か、足りないみたい。レイの中で」
「後で話す」
「後で?」
「話すことがある。ここを出てからだ」
ミアの目が、ほんの少し険しくなった。1年前の広場で、勝手に決めないでと言ったときと同じ目だった。
「また勝手に決めるの?」
「決めない。話す。約束する」
ミアは、しばらく俺を見ていた。
「約束ね」
「約束だ」
井戸の石の陰で、小さな声がした。子供が、石組みにしがみついたまま、泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。俺と目が合うと、首をすくめて石の陰へ隠れた。
ミアが、俺の外套から手を離した。子供の前にしゃがみ、両腕を広げた。
「おいで。もう大丈夫。この人は、怖くないから」
子供は、ミアの首にしがみついた。ミアはその子を抱き上げて立った。鈴が、子供の頬の横で小さく鳴った。
「なぜ、お前が戻った」
俺は聞いた。
「修道女は、止めたと言ってた」
「この子が隠れる場所、私しか知らないから。桶の陰か、井戸の裏。前にも1度、雷の夜にあったの」
「1人で来るな」
「レイにだけは言われたくない」
1年前にも、同じことを言われた。そのときは、盗んだ鍵の話だった。
鉄門の方角の声は、まだ止んでいなかった。ここに長くいるわけにはいかない。
「教会へ行く。歩けるか」
「歩ける。この子も、私が抱いていく」
「重くないか」
「レイに持たせたら、落とされそう」
俺は、何も言い返せなかった。
石垣の向こうから、松明の光が近づいてきた。兵が3人、洗濯場へ下りてきた。鉄門の方から回ってきたらしい。1人の槍の穂先に、灰色の皮膚の切れ端がついていた。
先頭の兵が、井戸の脇のグールの死骸と、洗い桶の中の四つ足を見た。それから、松明を上げた。光が、俺の顔を照らした。頭巾は、背中に落ちたままだった。
兵の口が、半分開いた。
「……空の器だ」
後ろの兵が、松明を持つ手を下げた。
「黒淵に落とされた、あの……本当に、帰ってきて」
3人目の兵の目が、俺から、子供を抱いたミアへ移った。
「その娘は、あいつと一緒に――」
俺は、それが何を意味するのかを知っていた。抗議した娘。今夜まで、ミアはそう記録されていた。この松明の光の中で、別のものになった。
帰ってきた空の器に会った娘に。1年分、避けてきたことだった。
「この子を助けたのは、この人です」
ミアが、兵に向かって言った。震えていなかった。
「私も、この子も、この人がいなかったら――」
「ミア」
俺は、ミアの肩に手を置いた。握らないように。
「いい。言わなくていい」
石垣の向こうで、別の足音がした。軽く、一定の間隔を崩さない足音だった。ぬかるんだ泥を踏む音の間に、小さく硬い音が混じっていた。銀の玉が、別の銀の玉に触れる音だった。
兵たちが、道を空けた。覆いをかけた角灯が、石垣の上で止まった。その後ろに、白い外套の男が2人立っていた。胸で、聖印が揺れていた。
イレーネ・ヴァイスが、石垣を越えて洗濯場へ下りてきた。雨よけの外套の頭巾を下ろし、腰に白銀の細剣と、巻いた白い鎖を下げていた。今夜、焼却炉の陰で会ったときと、何も変わっていなかった。変わっていたのは、黒い手袋の右手が、もう細剣の柄に置かれていることだけだった。
「巡察官様……」
ミアが、小さく言った。
イレーネの目は、子供を抱いた腕と首元の鈴を、1度だけ見た。それから、俺へ戻った。
「対象、レイ・クロウ」
声は、平らだった。
「この混乱の中で、あなたを見失うわけにはいきません。拘束します」
「今か」
俺は言った。
「鉄門の方に、まだいる。奥から、もっと下りてくる」
「存じています。魔物は、兵が対処します」
イレーネは、角灯を石垣の上に置いた。
「私の役目は、あなたです」
「準備は、足りたのか」
「足りるようにしてから来る、と申し上げました」
黒い手袋の左手が、腰の鎖へ伸びた。
俺は、子供を抱いたミアの前へ出た。ミアの肩を、手のひらで後ろへ押した。1年前の広場で、祭壇の石段の下でそうしたように。
「レイ」
背中で、初めて聞く声が俺を呼んだ。
城壁の上の東の空が、白み始めていた。鉄門の方角で、あの重なった声が、まだ低く鳴っていた。
白い鎖が、1巻きずつほどけて、イレーネの左手の中で垂れた。




