↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

97/125

聞いたことのない声

ご覧いただきありがとうございます!

よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!


それでは、どうぞお楽しみください。

少しかすれた声だった。長く叫んだあとの喉で、無理に絞り出したような声だった。高くも低くもなく、最後の音が細く震えて消えた。それが、ミアの声だった。


鉄門の方角では、あの重なった声がまだ低く鳴っていた。頭巾(ずきん)は背中に落ちたままで、足元の角灯(かくとう)が俺の顔を下から照らしている。今夜、焼却炉の陰で、イレーネは足りるようにしてから来ると言った。それでも、俺は動けなかった。


目の前にいるのがミアだということは、分かっていた。淡い金髪も、灰青色の目も、少し尖(とが)った顎(あご)も、首元の銀の鈴も、全部がそうだと言っていた。呼ばれた名前も、俺の名前だった。それなのに、その声を、俺は1度も聞いたことがなかった。


第12層で、何を失うか分からないまま、取得すると言った。声なら、会えばまた聞ける。そう思った。


聞けた。聞けたのに、聞き直した気がしなかった。今、耳に届いた声は、どこにもつながっていなかった。1年前の広場にも、山道にも、厨房の奥の机にも。


「……ミア」


自分の声は、もっとかすれていた。


ミアは、子供を抱えたまま俺の顔を見ていた。瞬きを1度して、もう1度した。消えないかを確かめるように。


「本当に?」


「本当だ」


ミアは、子供の手をそっと井戸の石へ預けた。立ち上がり、1歩、前へ出た。それから、走ってきた。


「お兄ちゃん!」


ミアの身体が、胸にぶつかった。両手が、俺の外套(がいとう)の前を掴(つか)んだ。額が、胸の真ん中に押しつけられた。


1年前、黒淵(こくえん)へ向かう山道で、同じところへ額を押しつけられた。あのとき、胸元には記録帳の角があった。今も、あった。


お兄ちゃん。その言葉は、覚えていた。山道で、背中にぶつけられた言葉だった。振り返れば戻れなくなると思って、それでも振り返った言葉だった。


言葉は同じだった。声だけが、初めて聞く声だった。


俺は、両手を上げた。ミアの背中へ回そうとして、途中で止まった。握る強さは、指から返ってこない。卵の殻を砕き、斧(おの)の柄を割り、縄を切った手だった。


指を開いたまま、手のひらだけを、ミアの背中に置いた。握らなかった。それでも、手のひらの下で、ミアの背中が震えているのが分かった。


胸の真ん中が、熱かった。帰ってきた、と思った。石室で空を見たときでも、丘の上から城壁を見たときでもなかった。今、ここで、初めてそう思った。


「遅い」


胸に額をつけたまま、ミアが言った。


「……悪い」


「3日って言った」


「言った」


「1年だよ。1年も、何してたの」


「落ちてた。それから、上ってた」


「ばか」


外套(がいとう)を掴(つか)む指に、力が入った。


「みんな、死んだって言った。司祭様も、兵隊も、町の人も。骨も残ってないって。私は、思ってなかった。思ってなかったけど」


声が、そこで途切れた。しばらく、ミアは何も言わなかった。俺の胸の真ん中で、息だけが熱かった。


「……帰った」


俺が言うと、ミアは顔を上げた。灰青色の目が濡れていた。濡れたまま、怒っていた。


「見れば分かるでしょう」


知っている言い方だった。1年前、七柱の石板の下から這(は)い出してきたときも、同じことを言われた。言葉の形も、言い返すときの間も、覚えていた。


ただ、その言い方をする声だけを、俺は今、初めて聞いていた。知っている言葉を、知らない声が話していた。


俺は、その声を覚えておこうとした。かすれ方。語尾の震え。怒ると少しだけ速くなるところ。


どこにもつながらない声を、今日のこの場所に、1つずつ結びつけようとした。背中の包みの中で、何かがかすかに動いた気配がした。シグは、何も言わなかった。単眼の光を最小に落としたまま、聞いているのが分かった。


会った日の声は、記録できる。水門小屋の机の前で、シグはそう言った。今が、その日だった。


「痩(や)せた」


ミアが、俺の頬に指で触れた。


「傷も、増えた。ここも、ここも」


額の古い傷と、顎(あご)の傷を、指先が1つずつ確かめていった。指先は冷たかった。雨の中で、竿を握り続けていた指だった。


その指が、途中で止まった。


「……ねえ」


ミアが、俺の目を見た。


「どうして、そんな顔するの」


「どんな顔だ」


「私が喋るたびに、何か探してるみたいな顔」


言葉が、喉の奥で止まった。


ミアの指は、まだ俺の頬に触れていた。その指先から何かを確かめるように、ミアは少しだけ目を細めた。


「……何か、足りないみたい。レイの中で」


「後で話す」


「後で?」


「話すことがある。ここを出てからだ」


ミアの目が、ほんの少し険しくなった。1年前の広場で、勝手に決めないでと言ったときと同じ目だった。


「また勝手に決めるの?」


「決めない。話す。約束する」


ミアは、しばらく俺を見ていた。


「約束ね」


「約束だ」


井戸の石の陰で、小さな声がした。子供が、石組みにしがみついたまま、泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。俺と目が合うと、首をすくめて石の陰へ隠れた。


ミアが、俺の外套(がいとう)から手を離した。子供の前にしゃがみ、両腕を広げた。


「おいで。もう大丈夫。この人は、怖くないから」


子供は、ミアの首にしがみついた。ミアはその子を抱き上げて立った。鈴が、子供の頬の横で小さく鳴った。


「なぜ、お前が戻った」


俺は聞いた。


「修道女は、止めたと言ってた」


「この子が隠れる場所、私しか知らないから。桶(おけ)の陰か、井戸の裏。前にも1度、雷の夜にあったの」


「1人で来るな」


「レイにだけは言われたくない」


1年前にも、同じことを言われた。そのときは、盗んだ鍵の話だった。


鉄門の方角の声は、まだ止んでいなかった。ここに長くいるわけにはいかない。


「教会へ行く。歩けるか」


「歩ける。この子も、私が抱いていく」


「重くないか」


「レイに持たせたら、落とされそう」


俺は、何も言い返せなかった。


石垣の向こうから、松明の光が近づいてきた。兵が3人、洗濯場へ下りてきた。鉄門の方から回ってきたらしい。1人の槍の穂先(ほさき)に、灰色の皮膚の切れ端がついていた。


先頭の兵が、井戸の脇のグールの死骸と、洗い桶(おけ)の中の四つ足を見た。それから、松明を上げた。光が、俺の顔を照らした。頭巾(ずきん)は、背中に落ちたままだった。


兵の口が、半分開いた。


「……空の器だ」


後ろの兵が、松明を持つ手を下げた。


「黒淵(こくえん)に落とされた、あの……本当に、帰ってきて」


3人目の兵の目が、俺から、子供を抱いたミアへ移った。


「その娘は、あいつと一緒に――」


俺は、それが何を意味するのかを知っていた。抗議した娘。今夜まで、ミアはそう記録されていた。この松明の光の中で、別のものになった。


帰ってきた空の器に会った娘に。1年分、避けてきたことだった。


「この子を助けたのは、この人です」


ミアが、兵に向かって言った。震えていなかった。


「私も、この子も、この人がいなかったら――」


「ミア」


俺は、ミアの肩に手を置いた。握らないように。


「いい。言わなくていい」


石垣の向こうで、別の足音がした。軽く、一定の間隔を崩さない足音だった。ぬかるんだ泥を踏む音の間に、小さく硬い音が混じっていた。銀の玉が、別の銀の玉に触れる音だった。


兵たちが、道を空けた。覆いをかけた角灯(かくとう)が、石垣の上で止まった。その後ろに、白い外套(がいとう)の男が2人立っていた。胸で、聖印が揺れていた。


イレーネ・ヴァイスが、石垣を越えて洗濯場へ下りてきた。雨よけの外套(がいとう)の頭巾(ずきん)を下ろし、腰に白銀の細剣と、巻いた白い鎖を下げていた。今夜、焼却炉の陰で会ったときと、何も変わっていなかった。変わっていたのは、黒い手袋の右手が、もう細剣の柄に置かれていることだけだった。


「巡察官様……」


ミアが、小さく言った。


イレーネの目は、子供を抱いた腕と首元の鈴を、1度だけ見た。それから、俺へ戻った。


「対象、レイ・クロウ」


声は、平らだった。


「この混乱の中で、あなたを見失うわけにはいきません。拘束します」


「今か」


俺は言った。


「鉄門の方に、まだいる。奥から、もっと下りてくる」


「存じています。魔物は、兵が対処します」


イレーネは、角灯(かくとう)を石垣の上に置いた。


「私の役目は、あなたです」


「準備は、足りたのか」


「足りるようにしてから来る、と申し上げました」


黒い手袋の左手が、腰の鎖へ伸びた。


俺は、子供を抱いたミアの前へ出た。ミアの肩を、手のひらで後ろへ押した。1年前の広場で、祭壇の石段の下でそうしたように。


「レイ」


背中で、初めて聞く声が俺を呼んだ。


城壁の上の東の空が、白み始めていた。鉄門の方角で、あの重なった声が、まだ低く鳴っていた。


白い鎖が、1巻きずつほどけて、イレーネの左手の中で垂れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。