鈴の音
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それでは、どうぞお楽しみください。
西門の広場から、外壁区の西の端へ走った。鉄門は破られ、灰色のものと、背中に茸の生えた犬のようなものが、もう通りに入っている。兵は、西門の列に張りついたままだった。
鉄門から通りを3本東へ入れば、養護院がある。群れが3本の通りを越えるのに、長くはかからない。その間に立つ兵は、1人もいなかった。
西の端へ近づくほど、通りから明かりが消えていった。戸はどれも閉じていた。窓板の隙間からも、光は漏れていなかった。逃げた家と、息を殺している家の区別がつかなかった。
俺は暗視Lv.3を使った。灰色の像の中に、濡れた石畳と、軒の低い家々が浮かんだ。通りの真ん中に片方だけの木靴が落ち、その先に倒れた桶があった。誰かが走って逃げた跡だった。
角を2つ曲がったところで、人の声がした。年寄りの男が、戸口の段に座り込んで脚を押さえていた。その前に、グールが1体しゃがんでいた。年寄りの顔ではなく、脚の傷から流れる血を見ていた。
グールまで、12歩。俺は足音を消さなかった。グールが振り向き、濁った目が俺を見て、跳ぶための立ち方に変わった。
跳ぶ前に、俺が着いた。右の拳を、首の横へ入れた。グールは戸口の脇の壁にぶつかって、崩れ落ちた。
「立てるか」
年寄りは、俺を見上げたまま口を動かした。声は出なかった。
「東へ行け。西門の広場の兵が、教会へ案内してる」
年寄りは壁に手をつき、脚を引きずって歩き出した。1度だけ振り返った。胸の前で、指が小さく円を描いていた。
西から、風が来た。灰と果物の臭いが、濃かった。その下の湿った甘さも、西門の塔の上より強かった。
鉄門の方角で、何かが鳴いていた。いくつもの声が少しずつずれて重なった、あの長い音だった。ときどき、その中に言葉のようなものが混じった。聞き取ろうとすると、ほかの声に埋もれて消えた。
俺は足を止めなかった。鉄門から、通りを3本東へ。養護院の表の門が見えた。
門は開いていた。中庭に人はいなかった。1階の窓も、2階の端の窓も、暗かった。
「……もう出たか」
呟いた声が、自分の耳にも小さく聞こえた。避難したのなら、教会だ。石の礼拝堂は、ここから近い。子供たちは、もうそこにいるはずだった。
足を東へ向けかけたとき、中庭の奥の戸が開いた。白い法衣の女が、角灯を掲げて飛び出してきた。養護院の修道女だった。1年前、俺を礼拝室の入口の外に立たせた女だった。
女は、門の前の俺を見て立ちすくんだ。頭巾の奥までは、光が届いていなかった。
「兵隊さん? お願い、子供が1人足りないの」
「子供たちは」
「教会へ連れていった。数えたら、1人いなくて……一番小さい子で、大きな音がすると、いつも洗濯場の桶の陰に隠れる子で」
「探しに行ったのは、お前だけか」
「年上の子が、先に戻ったの。止めたのに、あの子は聞かなくて」
女の声が震えていた。
「裏の方へ走っていった。洗濯場の方へ」
「お前は教会へ戻れ。戸を閉めて、開けるな」
「でも」
「行け」
女は角灯を胸に抱えたまま、1歩下がった。それから、通りの東へ走っていった。
年上の子。聞かなかった。止めたのに。誰のことかを考える前に、音が聞こえた。
鈴が鳴った。小さな、高い音だった。1度鳴り、すぐにもう1度鳴った。何かを振り回すたびに、首から下げたものが揺れて鳴る音だった。
養護院の裏の方角からだった。俺は、その音を知っていた。
裏庭へ俺を呼びに走ってきたとき。広場で、祭壇の石段の下まで走ってきたとき。石板の向こうで、1度だけ鳴ったとき。音の高さも、鳴り終わるときの細い震えも、覚えていた。
声は覚えていない。だが、この音は覚えていた。銀の鈴の音だった。俺は走った。
養護院の塀に沿って、裏へ回った。古い焼却炉の煙突の横を抜けた。今夜、この陰でイレーネと向かい合った。泥の上に、俺の足跡と、あの女の靴の跡が、雨に崩れかけて残っていた。
焼却炉から石垣まで、10歩。鈴は、石垣の向こうで鳴り続けていた。その間に、低い唸り声が混じった。人の声ではなかった。
石垣に手をかけた。腰ほどの高さの、石を積んだだけの壁だった。上の石が1つ、手の下でぐらりと動いた。俺はその石を掴んだまま、石垣を越えた。
洗濯場だった。井戸の周りに、洗い桶がいくつも並んでいた。雨水を張ったままの桶が、暗視Lv.3の灰色の中で鈍く光っていた。
井戸の石組みを背にして、2つの人影があった。小さい方は、井戸の石に張りつくようにしゃがんでいた。5つか6つの子供だった。寝間着のまま、裸足だった。
その前に、もう1人が立っていた。物干し竿を両手で握り、竿の先を前へ突き出していた。足元に落ちた角灯の火が、濡れた石の上で揺れていた。
竿を振るたびに、首元で鈴が鳴った。肩の下まで伸びた髪が、同じように揺れていた。
竿の先に、グールが1体いた。距離は、5歩ほど。竿の届かないところで身を低くし、首を左右に揺らして隙を探していた。
その横から、四つ足の影がもう1つ、井戸の石組みを回り込もうとしていた。犬に似ていた。背中に、灰色の茸の塊が2つ盛り上がっている。奈落の第2大層で見た、スポアハウンドだった。
背中の塊が、少しずつ膨らんでいた。あれが張り詰めて裂ければ、白い粉が井戸の前の2人に降る。
俺と井戸の間は、20歩。グールの踵が浮き、つま先に体重が乗った。間に合わない、と足が先に判断した。
俺は、握っていた石を投げた。狙ったのは、グールの脇腹だった。跳ぶ直前の、いちばん重心の低いところ。石は雨の筋を1本切って、グールの脇へまっすぐ当たった。
骨の折れる音がした。グールの身体が、跳ぶはずだった方向からずれた。竿の先をかすめて横へ流れ、井戸の石組みの角に頭からぶつかった。
その間に、俺は20歩を詰めていた。石組みの下でもがくグールの首の後ろへ、右の拳を落とした。グールは、それきり動かなくなった。
鈴が、すぐ後ろで鳴った。振り返らなかった。スポアハウンドが、井戸の反対側から回り込んでいた。
背中の塊は、もう張り詰めていた。塊の向いている先に、しゃがんだ子供と、竿を握った背中があった。
「息を止めろ」
俺は言った。
「顔を伏せろ。その子の顔もだ」
後ろで、布の擦れる音がした。鈴が1度だけ短く鳴って、止まった。
スポアハウンドが跳んだ。俺は、その首を左手で掴んだ。握る強さは分からなかった。分からないまま、背中の塊が井戸の方を向く前に、身体ごと横へ振った。
獣の背中を、雨水の張った洗い桶へ叩き込んだ。塊が、水の中で裂けた。白い粉が、噴き出す前に水に呑まれた。桶の縁から、濁った泡だけがあふれた。
俺は息を止めたまま、桶の中で暴れる首へ右の拳を落とした。獣の脚が1度だけ桶の縁を掻き、止まった。
冷たい文字が、視界の端に浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:グール 2体
討伐対象:スポアハウンド 1体
討伐吸収が完了しました。
寄生による魂情報の摩耗を確認。
力の残滓を蓄積しました。
能力値の変化はありません。
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
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文字が消えるのを、待たなかった。俺は桶から手を抜いた。左腕に、濡れた白い粉が少しだけついていた。水で流し、外套の裾で拭ってから、息を吐いた。
洗濯場に、ほかに動くものはいなかった。鉄門の方角で、あの重なった声がまだ鳴っていた。こちらへは、近づいてこなかった。
俺は、振り返った。井戸の石組みの前で、竿がゆっくりと下りていった。その向こうで、しゃがんだ子供を抱えるようにして、少女が顔を上げた。
走ったときに、頭巾は背中へ落ちていた。俺は暗視Lv.3を切った。足元の角灯の火が、俺の顔を下から照らしていた。
少女の目が、俺の顔の上で止まった。灰青色だった。1年前、礼拝室の扉が閉まる直前まで俺を見ていた色だった。知っていた色だった。
額の古い傷と、こけた頬と、雑に切った髪の上を、その目が1つずつ確かめていった。竿が、手から落ちた。乾いた音が濡れた石の上で跳ね、首元の鈴が1度だけ小さく鳴った。
少女の唇が、開いた。
「……レイ?」
知らない声だった。




