開いた歪み
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それでは、どうぞお楽しみください。
角笛は、7度目を過ぎても止まなかった。
長く1度。間を置いて、また長く1度。雨の弱まった夜空の下で、同じ音だけが西の城壁から繰り返された。
俺は溝の縁に手をかけたまま、その音を数えていた。西から吹き下りる風は、甘い臭いを運び続けている。北の村で3体の死骸から嗅いだものとは、濃さが違った。城壁の外から来ているのは、3体どころではなかった。
『この組み合わせを、あなたは知っていますか』
背中の包みの中で、シグが小さく言った。
「同じものは知らない。近いのを、1年前に1度だけ聞いた。準備室から地下牢へ戻される途中だ」
『どんな鳴り方でしたか』
「1度鳴って、間を置いて、もう1度。それで止んだ。見張り台の旗が黄色から赤に変わって、砕城犀が監視域に入った」
『今夜は、止まりません』
「入ってくるのが、1つじゃないってことだ」
俺は溝から上がった。喉の奥に張りついた甘い臭いが、息を吸うたびに濃くなった。熟れすぎた果物と、乾いた灰。その下に、もう1つ別の甘さが薄く混じっていた。
湿った土と、傘を開いた茸の匂いだった。奈落の第2大層の森で、何度も嗅いだ匂いだった。
排水路の暗がりから、角灯の光が近づいてきた。水をかき分ける足音が1つ。光の向こうに、左の頬の火傷の跡が見えた。小隊長だった。
「探した」
小隊長は溝の底で足を止め、息を整えた。
「小屋にいなかったから、水路を上ってきた。閣下が呼んでる」
「北の村か」
「西だ。西の城壁の上へ来い、とな」
「壁の上には兵がいる」
「今夜は、壁の上の兵は外しか見ない。頭巾をかぶって、俺の後ろを歩け」
俺は頭巾を深く下ろした。背中の包みを結び直し、紐を胸の前で2度締めた。
「その荷は置いていけないのか」
「置いていけない」
小隊長は、それ以上聞かなかった。
西の城壁へ上がる石段は、塔の内側を回っていた。兵が何人も、槍と矢束を抱えて駆け上がっていった。誰も俺を見なかった。小隊長の言ったとおり、全員の目が外を向いていた。
塔の上に出ると、雨混じりの風が正面から吹きつけた。城壁の縁に、魔導灯が等間隔に並んでいた。どれも外へ向けられ、白い光が城壁の下の斜面を照らしていた。刈り株の残る畑、南の採石場へ続く道、その先の暗い山の裾。
光の届かない山の裾で、何かが動いていた。1つではなかった。黒い点が、斜面の上から下へ、少しずつ、途切れずに増えていた。
「来たか」
塔の奥から、低い声がした。
ヴァルター・ゲルンが、城壁の縁に片手をついて立っていた。濃紺の軍服は雨で黒く濡れていた。腰の長剣は、抜きやすい位置へずらされていた。1年前、黒淵の鉄門の前で見たのと同じ位置だった。
「斥候が戻った」
ヴァルターは、振り返らずに言った。
「山道の出口から、採石場の手前まで。灰色の人の形をしたものと、四つ足のもの。少なくとも60。後ろは、まだ山から出てくる」
「着くのは」
「この速さなら、夜明けの1刻前だ」
「どう守る」
「門を閉じる。固定式弩砲3基で、坂の途中から数を減らす。壁に取りついたものは、槍で落とす。外壁区の住民は、東へ下げる」
ヴァルターは、そこで初めて俺を見た。
「それから、お前に聞くことがある」
懐から、紐で綴じた薄い帳面を出した。表紙に、見張り台の番号が書いてあった。
「見張りの日誌だ。14日前の夜明け前、西の山の中腹に白い光が見えた。見張りは流れ星と書いた」
ヴァルターは、頁をめくった。
「10日前の夜にも、同じ場所に光。10を数えるほど続いた。見張りは雷と書いた。6日前の夜。30を数えるほど。2日前の夜。見張りが100まで数えて、数えるのをやめた」
帳面を閉じた。
「4度とも、同じ場所だ。その下の山から、今夜、あれが下りてきている」
俺は、白い光の話を聞きながら、14日前の第12層の床を思い出していた。台座の外周へ走った光。足元から立ち上がった白。
「お前は、あの光を知っているか」
「……山の上に、古い遺跡がある。俺は、そこから出てきた」
ヴァルターの眉が、わずかに動いた。
「なら、あれはお前の出口か」
「たぶん」
「たぶんで、兵は動かせん」
「確かめる。少しだけ時間をくれ」
ヴァルターは、坂の上の黒い点を見た。
「四半刻だ」
小隊長に言って、塔の石段を半分だけ下りた。踊り場の窓には板が打ちつけられ、外の風の音だけが聞こえた。上からも下からも、兵の足音が遠かった。
「シグ」
包みの口を少しだけ開けた。単眼が、最小の光で灯った。
『全部、聞いていました』
「どう思う」
『照合します。時間をください』
単眼の光が、細く明滅した。俺は窓の板の隙間から、坂の途中の黒い点を見ていた。
『見張りの日誌の最初の光は、14日前の夜明け前です。落下から推定334日。私たちが石室へ着いたのは、同じ日の夜明け前です』
「最初の光は、俺たちか」
『その可能性が高いです。転移の光を、見張りが見たと推定します』
「残りの3つは」
『338日、342日、346日です。間隔は、いずれも4日前後です。見張りの時刻の書き方では、それ以上細かくは分かりません』
「4日ごとに、開いてる」
『そして、開いている時間が、回を追うごとに長くなっています』
シグは、そこで1度だけ光を落とした。
『休み小屋の西の足跡は、337日の朝に、1日以内のものでした。334日の光のあと、山を下りてきたものと合います。北の村の3体目の足跡は、どれとも一致しませんでした。338日の光のあとで出てきたと考えると、日数が合います』
「今夜のは」
『342日と346日の光のあとで出てきたものが、山の中で集まった可能性があります』
俺は、窓の板に額をつけた。
「なぜ、4日ごとなんだ」
『第12層の転移設備の表示は、「帰還経路 待機」でした。待機は、接続を待っている状態です。石室の壁の表示は、「経路 閉――」でした』
「両側で、言ってることが違う」
『はい。出発側は待っています。到着側は閉じようとしています。ですが、到着側の台座は割れていて、応答しません。閉じる手順を、終えることができません』
「それで」
『出発側の設備は、応答がないので、一定の間隔でもう1度つなごうとしていると推定します。つなぐたびに、経路が石室の側で少しだけ開きます。失敗するたびに、試す時間を延ばしている可能性があります』
「延ばす理由は」
『あの区画は、避難転移区画でした。人を送り届けることを、優先して作られていたと推定します。届くまで、やめません』
言葉が、出なかった。
第12層で、俺は接続片を差し込み、留め具を倒した。起動する、と言ったのは俺だった。
帰るための扉だった。俺が開けて、俺が通った。通ったあとで、その扉は閉じなかった。
「……休み小屋では、推定だと言ったな」
『はい。確度は低いと言いました』
「今は」
『確度を、高に変更します。断定はしません。ですが、ほかの説明よりも、日付と足跡と表示が合います』
俺は、窓の板から額を離した。
「俺たちの転移が、呼び込んだ」
『「俺たち」と記録しますか』
「起動したのは俺だ。お前は、乗っただけだ」
『私も、乗ることを選びました。「俺たち」と記録します』
単眼の光が、ゆっくり1度明滅した。
『次の光は、推定で350日です。開いている時間は、今夜のものより長くなる可能性があります』
「2日後か」
『はい』
「閉じる方法は」
『今は、分かりません。台座は応答しませんでした』
「分かった。今は、下りてくる方だ」
俺は包みの口を閉じた。石段を上がる足は、下りたときより重くなかった。重さの向きが、決まっただけだった。
塔の上に戻ると、ヴァルターは同じ場所に立っていた。
「確かめた」
「言え」
「あの光は、俺が出てきた扉だ。閉じ切ってない。4日ごとに開いて、そのたびに、あいつらが出てくる」
ヴァルターは、しばらく何も言わなかった。雨の中で、角笛がまた鳴った。長く1度。
「次は」
「2日後だ。たぶん、今夜より長く開く」
「閉じられるのか」
「まだ分からない。分かったら、閉じる」
「お前がか」
「開けたのは俺だ」
ヴァルターの目が、俺の頭巾の奥で止まった。
「巡察官は、魔物がお前の帰還と関わりがあると、聖都へ報告すると言っていた」
「知ってる。本人から聞いた」
「今の話は、その報告を正しくする話だ」
「正しいなら、そうなる」
「分かって言っているのか」
「分かってる」
俺は、坂の方を見た。黒い点は、もう点ではなかった。魔導灯の光の端に、灰色の手足と、低く走る四つ足の背が見え始めていた。
「出てきた分は、俺が片づける。それとは別に、今夜の話だ」
ヴァルターは、見張りの日誌を懐へ戻した。
「私が知りたいのは、今夜あれが門を越えるかどうかだ。お前がどこから出てきたかは、そのあとで数える」
「それでいい」
「それから」
代官の指が1本、立った。
「今夜のことは、兵が倒したとは報告できん。数が多すぎる」
「分かってる」
「顔を隠す理由も、朝には薄くなる」
「それも分かってる」
ヴァルターは、それ以上言わなかった。城壁の縁から手を離し、塔の下の兵へ短く命じた。
弩砲の綱を張れ。門の閂を2本とも下ろせ。外壁区の鐘を鳴らせ。
風が、また西から吹いた。灰と果物の臭いに混じって、あの湿った甘さが、さっきより少しだけ濃くなっていた。
坂の上の暗がりの奥で、何かが鳴いた。1匹の声ではなかった。いくつもの声が、少しずつずれて重なり、1つの長い音になって、雨の中を下りてきた。
人の声に、似ていた。




