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効かない鎖

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それでは、どうぞお楽しみください。

鎖は、低く来た。


イレーネとの距離は6歩。俺の後ろには腰ほどの高さの石垣、右には養護院の塀へ続く暗がりがあった。


鎖が技能を閉じれば、殻も黒い火も出せなくなる。そうなれば、俺は縛られたまま教会の地下へ運ばれ、聖都からの「処分」の指示を待つことになる。かといって物音を立てれば、それは塀の上の暗い窓の奥まで届く。


白い鎖は、角灯(かくとう)の光を引きながら、地面すれすれを横に薙(な)いできた。狙いは足だった。


跳べば避けられた。だが、跳べば石垣を越える。越えた先の着地の音は、塀の中まで届く。


俺は跳ばなかった。


左の前腕に、硬殻(こうかく)Lv.3を張った。灰色の殻が手首から肘までを覆った。鎖が足へ届く前に、左腕を下ろしてその先を受けた。


鎖の先の重りが殻に当たり、そのまま巻きついた。1巻き、2巻き、3巻き。濡れた白い輪が、殻の上で締まった。鎖の反対の端は、イレーネの左手の中にあった。


冷たかった。雨の冷たさではなかった。巻きついた輪の内側から、細い冷気が殻を通り抜けて、腕の中へ入ってきた。輪に刻まれた文字が、淡く光っていた。


何かが、腕の中を探っていた。指のようなものが、皮膚の下を、骨に沿って奥へ進んできた。どこかを掴(つか)もうとしていた。掴(つか)む場所を探して、肘へ、肩へ、胸へと手を伸ばしてきた。


殻が、薄くなった。灰色の表面がちらつき、ところどころで透けて、下の皮膚がのぞいた。殻を保とうとすると、いつもより重い力が要った。濡れた砂を手で握り続けるような重さだった。


それでも、殻は消えなかった。


探る指は、胸の手前で止まった。行き場を失ったように、同じところを何度も撫(な)でた。掴(つか)めるものが、そこにはなかった。


輪の文字の光が、揺れた。灯りかけた蝋燭(ろうそく)の芯のように、強くなり、弱くなり、また強くなった。


イレーネは、光を見ていなかった。鎖が巻きついた瞬間に、もう踏み込んでいた。6歩の距離を、3歩で詰めた。


右手が細剣を抜いた。白銀の刃が、角灯(かくとう)の光を1本の線に変えた。切っ先は、俺の喉にも胸にも向いていなかった。


右の腿(もも)だった。膝の少し上の、脚を支える筋の上。そこを断てば、人は立っていられない。


殺すための突きではない。倒して、縛るための突きだった。


俺は、その切っ先を見ていた。身体を右へ半分だけ回し、鎖の巻きついた左腕を、腿(もも)の前へ下ろした。


刃が、殻に当たった。硬い音がした。殻は薄くなっていたが、割れなかった。切っ先は灰色の表面を滑り、外へ流れた。


イレーネの右手が、刃ごと外へ持っていかれた。


一瞬だった。


彼女の身体は、突いた勢いのまま半分こちらへ開いていた。細剣は外へ流れ、左手は鎖を握って下がっている。外套(がいとう)の合わせ目の上に、白い喉があった。手を伸ばせば届く距離だった。


俺の右手は、もう伸びていた。


考えたのではなかった。奈落(ならく)で、同じ距離に何度もあったものへ、手が勝手に向かっていた。


灰色の喉、濁った目、息の通り道。そこを潰せば、相手は止まる。1年かけて、身体がそれだけを覚えた。


指が、雨粒を割った。


止まった。


俺の指先は、イレーネの喉の、指1本分手前で止まっていた。雨が、俺の指から落ちて、彼女の襟を濡らした。


イレーネは動かなかった。細剣を流されたまま、鎖を握ったまま、淡い紫色の目で、喉の前の俺の手を見ていた。


胸の奥で、何かが動いた。熱だった。左腕の鎖へ向かって、胸から肩へ、肩から肘へ、細い熱が這(は)い下りようとしていた。


黒炎(こくえん)Lv.1だった。鎖の輪の文字に、反応していた。封じるものを見つけて、焼きに行こうとしていた。第12層で、古い命令の線に勝手に食らいついたときと同じだった。


鎖は、俺の腕に巻かれていた。その端は、イレーネの左手の中にあった。黒い手袋の指の、すぐ先に。


焼けば、鎖は乱れる。だが、熱がどこで止まるかを、俺はまだ正確には決められない。鎖を伝った火が、あの手袋の手前で止まるとは限らなかった。


人には向けない。


俺は、肩のところで熱を押し止めた。息を止め、胸の奥へ押し戻した。右腕の内側に、焼けた針を並べたような痛みが走った。黒炎(こくえん)Lv.1は、しばらく抵抗してから、胸の底へ沈んだ。


その間、俺の右手は、イレーネの喉の前から動かなかった。


「……止めましたね」


イレーネが言った。声は、平らだった。喉の前に手があるとは思えない声だった。


俺は答えなかった。


イレーネは、細剣を引いた。ゆっくりと、刃を俺から遠い方へ回しながら。それから、左の手首を小さく返した。


鎖が、緩んだ。巻きついていた3つの輪が、殻の上を滑った。彼女がもう1度手首を返すと、鎖は生き物のように腕からほどけ、地面を引きずる音もなく彼女の手元へ戻っていった。


イレーネは、2歩下がった。俺も、右手を下ろした。距離は、5歩になった。


「鎖が、効いていません」


イレーネは、手の中の鎖を見下ろした。輪の文字の光は、もう消えていた。


「半分だ」


俺は、左腕を見た。殻はまだ薄く、表面がちらついていた。


硬殻(こうかく)Lv.3を解くと、前腕に白い筋が3本、輪の形に残っていた。皮膚は切れていない。痺(しび)れのような冷たさだけが、骨の奥に残っていた。


「殻は薄くなった。消えなかった」


「半分では、効いていないのと同じです」


イレーネは、鎖を腰へ巻き戻し始めた。1巻きずつ、正確に。


「この鎖は、技能をつなぎ止めている場所を掴(つか)んで、閉じます。人の身体のどこかにある、その場所を」


「掴(つか)めなかった」


「そのようです」


「それが何か、俺は知らない」


「知らなくて当然です」


最後の1巻きを留め金にかけてから、彼女は顔を上げた。


「私の判断が、誤っていました。鎖が効くと考えて、踏み込みました。効かなかった場合の間合いを、取っていませんでした」


それを、責めるのでも言い訳するのでもなく言った。報告書の1行を読み上げるような声だった。


「それから、もう1つ」


数珠が、黒い指の間で1つ滑った。


「あなたは、私の喉の前で手を止めました」


「……」


「止めたのではありませんね。止まった、と言う方が正しいように見えました」


俺は、右の手のひらを見た。握ってはいなかった。開いたまま、雨を受けていた。


「黒淵(こくえん)の底で、喉を狙うことを覚えたのですね。止めることは、覚えていない」


何も言い返せなかった。古道で、棍棒の男の喉へ伸びた手。止めた直後に、手首を掴(つか)んで折った手。この女は、1度見ただけで、それを言い当てた。


「発言は記録しました、とは言わないのか」


俺が言うと、イレーネは少しだけ間を置いた。


「発言ではありません。記録は、しました」


養護院の1階の窓に、明かりが灯った。塀の向こうで、誰かが起きたらしい。戸板の軋(きし)む音と、低い男の声がした。


年寄りの寝ぼけた声だった。子供の声ではなかった。塀の上の窓は、暗いままだった。


イレーネは、明かりの灯った窓を見上げた。


「続ければ、塀の中の者が起きます」


「分かってる」


「今夜は、あなたも私も、それを望んでいません」


彼女は、焼却炉の縁の角灯(かくとう)を拾い上げた。覆いを戻すと、光は細い1本の線になった。


「今夜は、ここまでにします。あなたを拘束する準備が足りません」


「次は、足りるのか」


「足りるようにしてから、来ます」


「ミアには」


「先ほど申し上げたとおりです。今のところは」


イレーネは、塀に沿って歩き出した。表の通りの方へ。足音は軽く、一定の間隔を崩さなかった。1年前、石板の部屋の扉の外で聞いたのと同じ歩き方だった。


角を曲がる前に、1度だけ振り返った。


「レイ・クロウ。あなたは、死んでいるはずでした」


それだけ言って、角の向こうへ消えた。


俺は、石垣を越えなかった。越えずに、来た道を洗濯場の方へ引き返した。左腕の冷たさは、歩くうちに少しずつ引いていった。右腕の内側の焼けた痛みは、残っていた。


職人区を抜け、染物屋の裏の溝へ下りたところで、背中の包みが小さく動いた。


『喋ってもよいですか』


「小さい声でならいい」


『全部、聞いていました。記録しました』


「そうか」


『鎖が巻きついたとき、あなたの呼吸が11秒止まりました』


「黒炎(こくえん)が、鎖に食いつこうとした。押さえた」


『人には向けなかったのですね』


「向けなかった。鎖の先に、あの女の手があった」


シグは、しばらく黙っていた。


『もう1つ、記録してよいですか』


「何だ」


『あなたの右手が、イレーネ・ヴァイスの喉の前で止まっていた時間です』


「……いい。書いておけ」


溝の上で、雨が少し弱くなった。


風の向きが変わったのは、そのときだった。溝に沿って、西から風が吹き下りてきた。雨の匂いの中に、別の匂いが混じっていた。


甘い臭いだった。


熟れすぎた果物と、その底の乾いた灰。北の村の入口で嗅(か)いだのと同じ臭いだった。ただ、濃さが違った。


北の村では、風の中に糸のように1本混じっていた。今は、息を吸うたびに喉の奥に張りついた。舌の上に、味として残るほどだった。3体の死骸では、こうはならない。


俺は溝の縁に手をかけ、顔だけを地上へ出した。西の城壁の上で、魔導灯(まどうとう)が動いていた。白い光が、1つ、また1つと、城壁の外の方へ向きを変えていく。


角笛が鳴った。


長く1度。間を置いて、また長く1度。1年前に聞いた、どの組み合わせとも違った。


3度目が鳴り、4度目が鳴った。止まらなかった。


背中の包みの中で、シグが言った。


『風上は、西です。転移施設跡の方角と一致します』


「分かってる」


俺は、喉の奥の甘い臭いを飲み込んだ。


「……数が、多い」

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