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黒い手袋

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それでは、どうぞお楽しみください。

落下から推定348日の朝は、雨だった。


細く、冷たい雨だった。水門小屋の床板の穴から見える水路が、いつもより速く流れていた。天井の石の継ぎ目から、ときどき雫(しずく)が落ちた。


聖都から来る者が、今日にも門をくぐるかもしれなかった。来れば、まず司祭に会い、代官に会い、それから俺を探す。どの門から、何人で、どんな顔をして来るのか。それだけは、先に自分の目で見ておきたかった。


『昨日は、呼ばれませんでした』


シグが言った。


「村に何も出なかったんだろう」


『今日は、どこへ行きますか』


俺は外套(がいとう)を羽織り、頭巾(ずきん)を下ろしたまま答えた。


「鉱石置き場だ」


『食料は足りています。担ぐ必要はありません』


「担ぎに行くんじゃない。門を見に行く」


シグの単眼が、少しだけ上を向いた。


『執行者ですか』


「写しが聖都へ出たのは、341日の朝だ。急げば7日。今日で7日目になる」


『西門と東門の、どちらから来ると推定しますか』


「分からない。だが、宿場の街道は西から来る。宿場から来るなら、とっくに誰かが噂にしてる。聖都の方から来るなら、たぶん東だ」


『根拠として弱いです』


「知ってる。だから見に行く」


シグは、それ以上は聞かなかった。


雨の鉱石置き場には、いつもの半分ほどの男しかいなかった。帳面の太った男は、荷車の幌(ほろ)の下から列を数えた。俺の方へ指を向け、何も聞かずに帳面へ線を引いた。


顔と腕には、黒い粉を塗ってきた。雨で流れて、首筋を黒い筋が伝っていた。周りの男たちも同じで、誰の顔も半分溶けたような色をしていた。


袋を肩に載せ、荷車まで50歩を歩いた。握らないように、指先で口の縄を引っかける。しばらく担いでいなかったが、手は覚えていた。


荷車と袋の山の間を往復するたびに、東の門が見えた。門は半分だけ開いていた。雨よけの幌(ほろ)をかけた荷車が2台入り、驢馬(ろば)が1頭出ていった。門番は、幌(ほろ)の中をのぞくのも面倒そうだった。


昼の鐘までに、俺は同じ道を14度歩いた。門から入ってきたのは、荷車と、農夫と、濡れた犬だけだった。


昼の鐘が鳴り、太った男が帳面を閉じかけたときだった。門の外で、蹄(ひづめ)の音がした。


荷車の車輪の音ではなかった。揃った4つ足の音が、2頭分。その後ろから、重い車輪が石を噛(か)む音が続いた。


門番が背筋を伸ばし、半分開いていた門をもう半分押し広げた。入ってきたのは、馬に乗った男が2人と、1台の馬車だった。


男たちは白い外套(がいとう)を着て、胸に聖印を揺らしていた。馬車の幌(ほろ)は灰色で、横腹に七柱の印の円が描かれていた。


俺は、袋を肩に載せたまま足を止めた。


「止まるな」


後ろの男が言った。


「悪い」


俺は歩いた。荷車までの50歩を、いつもより少しだけ遅く歩いた。


馬車は、門を入ってすぐのところで止まった。幌(ほろ)の後ろが開き、中から1人が降りてきた。


雨よけの外套(がいとう)を着ていた。頭巾(ずきん)を深くかぶり、顔は見えなかった。その人物は門番の方へ片手を差し出し、何かの紙を見せたらしかった。


手に、黒い手袋をはめていた。


袋の縄が、指の中で軋(きし)んだ。


俺は、自分がどこを見ているのかに気づいた。顔ではなかった。背丈でも、外套(がいとう)の形でもない。頭巾(ずきん)の下から伸びた、濡れて光る黒い指だった。


1年前、あの指は、俺の親指から血を拭(ぬぐ)った。銀の数珠を1つずつ送った。黒淵(こくえん)の縁で、止まった。


門番が、紙を受け取って頭を下げた。


「聖都から……遠いところを」


「案内は不要です」


声が聞こえた。雨の音の中でも、はっきり届く声だった。大きくはない。静かで、平らで、選ばせる余地のない声だった。


「司祭ローデンの教会の場所は、存じています。馬車はここへ置かせてください。代官閣下には、後ほどこちらから伺います」


俺は、荷車の横で袋を下ろした。袋の口の縄が、指の間で切れていた。


イレーネ・ヴァイスだった。


顔を見る前に、分かっていた。手袋で身構え、声で決まった。


頭巾(ずきん)の端から、灰色がかった白い髪がのぞいていた。顎(あご)の辺りで切り揃えた髪だった。門番に何か言われて振り返ったとき、頭巾(ずきん)の影の中に淡い紫色の目が見えた。


1年前と、ほとんど変わっていなかった。声も、変わっていなかった。


俺は、そのことに気づいて、切れた縄を握ったまま動けなくなった。


覚えていた。この女の声を、俺は覚えていた。


告解室で「発言は記録しました」と言った声。「必要な手順です」と言った声。黒淵(こくえん)の縁で「あなたを地上へ残すことはできません」と言った声。


言葉だけではなかった。声の高さも、平らさも、語尾が少しだけ下がる癖も、今聞いた声と重ねて、同じだと分かった。


ミアの声は、覚えていないのに。


雨が、頭巾(ずきん)の縁から顔へ垂れた。黒い粉が溶けて、口の端へ流れ込んだ。鉄と石の味がした。


「おい、袋を」


太った男の声がした。


俺は袋を見下ろした。縄が切れ、口が開いて、黒い鉱石がいくつか泥の上へこぼれていた。


「悪い。拾う」


しゃがんで、鉱石を1つずつ袋へ戻した。握らないように、指で転がして入れた。その間に、門の方を見た。


イレーネは、門番と話し終えていた。馬に乗った2人の男に何か告げ、1人を馬車のそばに残した。もう1人は、馬を下りて彼女の後ろについた。


彼女は歩き出した。鉱石置き場の方ではなく、城壁の内側へまっすぐ延びる通りの方へ。


通りに出る前に、1度だけ足を止めた。頭巾(ずきん)の奥の目が、鉱石置き場を横切った。


荷車、袋の山、雨に濡れた黒い顔の男たち。その視線は、俺の上も通り過ぎた。止まらなかった。


ただ、外套(がいとう)の合わせ目から出ていた黒い手が、銀の数珠の上で1度だけ止まった。それから数珠はまた動き出し、イレーネは通りの奥へ歩いていった。


昼までの銅貨6枚を受け取り、俺は荷車の陰から路地へ入った。


追わなかった。追えば、あの馬の男に顔を見られる。見られなくても、あの女は背中で人の歩き方を数える。1年前、廊下の足音だけで俺はそれが彼女だと分かったのだから、同じことが向こうにもできないとは思えなかった。


染物屋の裏の溝へ下り、水門小屋へ戻った。包みの口を開けると、シグの単眼が灯った。


『喋ってもよいですか』


「いい」


『来ましたか』


「来た。東の門だ。イレーネ・ヴァイスだった」


シグの単眼が、1度だけ速く明滅した。


『1年前の巡察官ですか』


「そうだ。白い法衣は見えなかった。雨よけの外套(がいとう)だった。だが、手袋が黒かった」


『顔で確認しましたか』


「最後にな。手袋が先だ。声で決まった」


『声』


シグは、そこで言葉を止めた。


少しの間、床下の水の音だけがしていた。


『あなたは、イレーネ・ヴァイスの声を覚えているのですね』


「覚えてる」


『1年前の声と、今日の声を、比べることができましたか』


「できた。同じだった」


『記録します』


シグは、それ以上何も聞かなかった。俺も、何も言わなかった。


言えば、一昨日この机で言ったことの続きになる。字なら分かる。声は分からない。その声が誰の声なのかを、口に出すことになる。


俺は机の前に座り、記録帳を開いた。


『落下から推定348日。雨。東の門から、イレーネ・ヴァイスが入った。馬の男2人、馬車1台。司祭の教会へ行き、あとで代官に会うと言った』


『あの女の声は、覚えていた』


その行で、炭筆が止まった。続けて何か書こうとして、やめた。


『記録しました』


シグが言った。


『続きは、書きませんか』


「書かない」


『では、書かなかったことを記録します』


「今夜、養護院へ行く」


俺は記録帳を閉じた。


『理由を記録します』


「1年前、あの女は言った。彼女を捕らえれば、あなたは逃げない」


『その言葉は、私の記録にはありません。記録します』


「今日、司祭に会って、代官に会う。俺がこの城塞にいると、あの女はもう分かってる。分かってて、俺を捕まえる一番早い方法も知ってる」


『ミアを使う、ということですか』


「使うかもしれない。使わないかもしれない。見なきゃ分からない」


『会いに行くのですか』


「会わない。見るだけだ。窓と、塀と、見張りを」


『同行します』


「来い。今夜見たものは、全部要る」


シグは、自分で包みの中へ入った。脚をたたみ、単眼の光を最小まで落とした。


雨は、夜になっても止まなかった。


排水路の水は膝の上まで来ていた。染物屋の裏で溝から上がり、職人区を抜け、洗濯場の井戸の脇を通った。雨の夜の城塞は、どの窓も閉じていた。


低い石垣を越えると、古い焼却炉の煙突が見えた。その向こうに、養護院の裏の塀があった。俺は石垣の陰で止まり、しばらく息を殺した。


見張りがいなかった。


表の門の角に、角灯(かくとう)の光がなかった。塀に沿って歩く足音もなかった。8日前の夜、同じ速さで塀を回っていた灰色の外套(がいとう)が、どこにもいなかった。


2階の端の窓は、暗かった。


通りの向こうから、別の足音が聞こえた。重い靴と、鎧の擦(す)れる音。角灯(かくとう)の光が1つ、通りの角を曲がって消えていった。


城塞の夜回りだった。ヴァルターは、約束どおり兵をこの通りへ回していた。では、教会の見張りはどこへ行った。


俺は、焼却炉の陰へ移ろうとした。


石垣から焼却炉まで、10歩。煙突の根元の、煤(すす)で黒くなった壁の後ろ。1年前にミアが出てきた石の蓋の横で、8日前に俺がしゃがんでいた場所だった。


5歩目で、足が止まった。雨の匂いの中に、別の匂いがあった。


蝋燭(ろうそく)の匂いではない。油の匂いでもない。覆いをかけた角灯(かくとう)の中で、芯が燃える小さな匂いだった。


焼却炉の向こう側に、誰かがいる。


暗視(あんし)Lv.3を使おうとして、やめた。焼却炉の壁の向こうは、どれだけ目を凝らしても見えない。代わりに、耳を使った。


雨が煙突の縁を叩く音。塀の上の瓦を伝う水の音。その間に、小さな、硬い音が1つだけ混じった。


銀の玉が、別の銀の玉に触れる音だった。


焼却炉の縁に、何かが置かれた。黒い手袋だった。手袋をはめた手が、煤(すす)けた石の縁へ静かに指先を載せていた。


角灯(かくとう)の覆いが、少しだけずらされた。細い光が、雨の中へ1本伸びた。


その光の向こうで、誰かがこちらを見ていた。

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